2022年6月15日水曜日

念佛すなわち南無阿弥陀佛

  • 念佛に勝る善はない。如来大悲の丸出しであるからである。自分が称えて参ろうと気張るのは、浅ましい自力のはからいである。
  • 法然上人が「念佛すれば往生する、称えよ称えよ」と仰せられるのは、「本願力一つじゃぞ」とお示しくださるこころである。念佛を勧められるのは、名号の徳をあらわして下されているのである。
  • 他力とは如来の本願力である。網で魚を捕るようなものではない。如来様は大悲本願力の電気で衆生を「ああ、有り難や」と躍り上がらすのを他力という。 
  • 世間では、滝にも打たれず、水もかぶらず、お百度参りもせず、坐禅もしない者が何で佛に成れるものかという。
    真宗の修行というのは佛智の不思議を信ずる信心が、それが如実の修行である。
    また信心の上からの讃嘆の称名が、如実の修行である。単にお念佛を称えることが修行ではない。
    親鸞聖人は「一心(三心即一の信楽)是を如実修行相応と名づく、すなわち是れ正教なり、是れ正行なり、是れ正解なり、是れ正業なり、是れ正智なり」と仰せられた。
稲垣瑞劔師「法雷」第55号(1981年7月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

一心是を如実修行相応と名づく、すなわち是れ正教なり、是れ正行なり、是れ正解なり、是れ正業なり、是れ正智なり
とありますが、

ここの「一心」は信楽であり、
「如実修行相応」は『高僧和讃』に信心ひとつにさだめたり
と教えていただいています。

光瑞寺 さんのコメント...

法然上人から承った念佛往生の肝心を「信心一つ」と定めてくださったのですね。

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...