- 念佛に勝る善はない。如来大悲の丸出しであるからである。自分が称えて参ろうと気張るのは、浅ましい自力のはからいである。
- 法然上人が「念佛すれば往生する、称えよ称えよ」と仰せられるのは、「本願力一つじゃぞ」とお示しくださるこころである。念佛を勧められるのは、名号の徳をあらわして下されているのである。
- 他力とは如来の本願力である。網で魚を捕るようなものではない。如来様は大悲本願力の電気で衆生を「ああ、有り難や」と躍り上がらすのを他力という。
- 世間では、滝にも打たれず、水もかぶらず、お百度参りもせず、坐禅もしない者が何で佛に成れるものかという。
真宗の修行というのは佛智の不思議を信ずる信心が、それが如実の修行である。
また信心の上からの讃嘆の称名が、如実の修行である。単にお念佛を称えることが修行ではない。
親鸞聖人は「一心(三心即一の信楽)是を如実修行相応と名づく、すなわち是れ正教なり、是れ正行なり、是れ正解なり、是れ正業なり、是れ正智なり」と仰せられた。
稲垣瑞劔師「法雷」第55号(1981年7月発行)
2 件のコメント:
一心是を如実修行相応と名づく、すなわち是れ正教なり、是れ正行なり、是れ正解なり、是れ正業なり、是れ正智なり
とありますが、
ここの「一心」は信楽であり、
「如実修行相応」は『高僧和讃』に信心ひとつにさだめたり
と教えていただいています。
法然上人から承った念佛往生の肝心を「信心一つ」と定めてくださったのですね。
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