妙好人という人がある。あれはあれ、わしはわしじゃ。
妙好人が何がけなるい(うらやましい)か。あの花は赤う咲いているのよ。わしは白う咲いているだけのこと。往生は赤う咲こうが白う咲こうが、乃至紫に、黄色に、どういう色にでも咲かせてもらう通りに咲けばよいでないか。
妙好人伝といったものが出るから、迷う人が多く出るのや。妙好人に迷うようでは「親鸞一人がためなりけり」は、どうなったであろうか。
妙好人はよい人じゃ、えらい人じゃ。それには間違いないが、あまりに美しいお手本を見せ付けられると毒になる。凡夫は美しいものと違う。
きたないものがきたなく咲くのに、何の不思議があろうか。このきたないのを見させてくださった如来の真実心の美しさ、あの美しさを見とれているのが私の役目じゃ。自分が美しくなって何になる。他人様から美しう見えたら、大方は似せものかも知れぬ。
そうかと言うて、強いて泥棒することもいらぬ。嘘つくこともいらぬ。いらぬいらぬの日暮らしの気楽さ。
稲垣瑞劔師「法雷」第56号(1981年8月発行)
2 件のコメント:
妙好人はよい人じゃ、えらい人じゃ。それには間違いないが、あまりに美しいお手本を見せ付けられると毒になる。
とありますが、
「お手本」なので、それを真似させて頂ければと思うし、それを学ばせて頂ければと思います。
この当時では「妙好人」はお手本となりうる身近な存在だったということでしょうか。私などは、妙好人にまつわるもろもろの伝承が、あたかも語り継がれた伝説のように映ります。
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