2022年6月25日土曜日

善人と悪人

 善人になれもせず、善人になる必要もなし。悪人はもとより凡夫の地性。
 悪はつつしみて善に就くように心掛けねばならぬ。それはこの世のこと。また佛法に瑕が付かぬようにするための報恩行の世界である。

 凡夫が佛に成るのには、善もいらぬ、まして悪もいらぬ。「いらぬ いらぬ」が極楽参りのすがたである。
 何何せねばならぬと思う、「ならぬ ならぬ」は地獄行きのすがたである。
 薬があるから毒をいくら飲んでも構わぬという人がある、「かまわぬ かまわぬ」も地獄行きのすがたである。

 さてどうなるか、「ならぬ ならぬ」と「かまわぬ かまわぬ」と両頭を截断して、一剣天に倚って寒しといったところは、如来様の本願力である。
 本願力の利剣は見事に「ならぬ」の頭も刎ね「かまわぬ」の頭も刎ね、佛願力のひとりばたらきで、易々と浄土へ往生させていただくのである。

 この世の善悪も信心の徳として、あまり気を使わずに、ひとりでに守られるのが不思議である。
 信徳不思議の道徳は味わいだけのことじゃ。道理も理屈もない。妙な世界じゃ。

稲垣瑞劔師「法雷」第56号(1981年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

両頭を截断して、一剣天に倚って寒し
とありますが、

調べてみますと、
禅宗でも、両頭倶に截断し、一剣天に倚って寒し と使われ、
両頭(2つの考え)に捕らわれず、ともにたち切って、
一剣(自分の気持ち)に従うことが、天の理に従う道である
という意味でありました。

光瑞寺 さんのコメント...

禅宗でも修行の末に開かれる境地が、「易々と」「「ひとりでに」恵まれるとは。
とてもとても考えも及びません。

「善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり」

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...