善人になれもせず、善人になる必要もなし。悪人はもとより凡夫の地性。
悪はつつしみて善に就くように心掛けねばならぬ。それはこの世のこと。また佛法に瑕が付かぬようにするための報恩行の世界である。
凡夫が佛に成るのには、善もいらぬ、まして悪もいらぬ。「いらぬ いらぬ」が極楽参りのすがたである。
何何せねばならぬと思う、「ならぬ ならぬ」は地獄行きのすがたである。
薬があるから毒をいくら飲んでも構わぬという人がある、「かまわぬ かまわぬ」も地獄行きのすがたである。
さてどうなるか、「ならぬ ならぬ」と「かまわぬ かまわぬ」と両頭を截断して、一剣天に倚って寒しといったところは、如来様の本願力である。
本願力の利剣は見事に「ならぬ」の頭も刎ね「かまわぬ」の頭も刎ね、佛願力のひとりばたらきで、易々と浄土へ往生させていただくのである。
この世の善悪も信心の徳として、あまり気を使わずに、ひとりでに守られるのが不思議である。
信徳不思議の道徳は味わいだけのことじゃ。道理も理屈もない。妙な世界じゃ。
稲垣瑞劔師「法雷」第56号(1981年8月発行)
2 件のコメント:
両頭を截断して、一剣天に倚って寒し
とありますが、
調べてみますと、
禅宗でも、両頭倶に截断し、一剣天に倚って寒し と使われ、
両頭(2つの考え)に捕らわれず、ともにたち切って、
一剣(自分の気持ち)に従うことが、天の理に従う道である
という意味でありました。
禅宗でも修行の末に開かれる境地が、「易々と」「「ひとりでに」恵まれるとは。
とてもとても考えも及びません。
「善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり」
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