お聖教の文字は如来様の言葉であり、如来様であり、大慈悲心で大慈悲心が書きあらわされたものであるから、くれぐれも尊くいただくところに信心は得られる。
『教行信証』の文字は如来様の法身の光輪であり、また佛智と大悲心そのものであり、また聖人の法身であるから、いただけばいただく度毎に「此処じゃがな」「是れじゃがな」と文字が教えて下さる。
三遍、十遍、三年、五年、十年で分からなかったことを、三十年目に、また五十年目に教えて下さることがある。お聖教はそうしたものである。
巻頭和讃に曰く
弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
佛恩報ずるおもひあり
と。これは聖人の信心の人格の丸出しである。聖人の御己証の浄土真宗、信心正因の全貌である。
講釈すれば尽きぬ話であるが、文字を飛び越えて、聖人に直々に遇ったような気がする。
稲垣瑞劔師「法雷」第57号(1981年9月発行)
2 件のコメント:
弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
佛恩報ずるおもひあり
・・・・・信心正因の全貌である。
とありますが、
ここの信心正因には、称名報恩 も含まれ、
信心正因 称名報恩の全貌である。
と教えていただいております。
御和讃の一首、御本典の一句をもって「聖人に直々に御対面」といただいても、身の程知らずと咎められないのですものね、お聖教というのは有り難い、尊いものです。
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