信心を掴んでおるとか、放しておるとか、何とかかとか、御同行の中には、こまんじゃくれて言うて、人を惑わすものがある。掴むも、放すも、あったもんかい。禅宗の問答でもあるまいに、自身が地獄へ落ちるか極楽へ参るかの境目でないか。地獄の猛火の中で、稀に佛法に遇わしてもろうた今日この頃、そんなのんきなことを言うておる時ではあるまい。掴む力も無く、放す力も無く、「とても地獄は一定すみかぞかし」でないか。
掴むのならば、佛語を確(しか)と掴め、放すのならば信心という言葉も忘れてしまえ。合点する脳味噌までも取り出して田んぼの中へ抛ってしまえ。逆謗の屍骸が掴んだり放したりする力があるか。
髑髏 識尽きて、その骸骨に如来の本願力が、妙なことには沁み込んで、その髑髏が踊り出すほどの不思議である。
かかる不思議がなかったならば、凡夫が佛に成れるものか。
稲垣瑞劔師「法雷」第57号(1981年9月発行)
2 件のコメント:
髑髏(どくろ) 識尽きて
とありますが、
調べてみますと、
禅宗でも、髑髏識尽きて 喜何ぞ立らん
と使われ、
どくろは、全ての知覚も感情も尽きると、喜びは生じることはない、
という意味でありました。
禅宗では知も情も尽き果ててしまうことを教えますが、本願力は屍骸が蘇る不思議を言うのですね。
「佛法不思議といふことは 弥陀の弘誓になづけたり」
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