2022年7月5日火曜日

無し無しで成る

 信心を掴んでおるとか、放しておるとか、何とかかとか、御同行の中には、こまんじゃくれて言うて、人を惑わすものがある。掴むも、放すも、あったもんかい。禅宗の問答でもあるまいに、自身が地獄へ落ちるか極楽へ参るかの境目でないか。地獄の猛火の中で、稀に佛法に遇わしてもろうた今日この頃、そんなのんきなことを言うておる時ではあるまい。掴む力も無く、放す力も無く、「とても地獄は一定すみかぞかし」でないか。

 掴むのならば、佛語を確(しか)と掴め、放すのならば信心という言葉も忘れてしまえ。合点する脳味噌までも取り出して田んぼの中へ抛ってしまえ。逆謗の屍骸が掴んだり放したりする力があるか。
 髑髏 識尽きて、その骸骨に如来の本願力が、妙なことには沁み込んで、その髑髏が踊り出すほどの不思議である。
 かかる不思議がなかったならば、凡夫が佛に成れるものか。

稲垣瑞劔師「法雷」第57号(1981年9月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

髑髏(どくろ) 識尽きて
とありますが、

調べてみますと、
禅宗でも、髑髏識尽きて 喜何ぞ立らん
と使われ、
どくろは、全ての知覚も感情も尽きると、喜びは生じることはない、
という意味でありました。

光瑞寺 さんのコメント...

禅宗では知も情も尽き果ててしまうことを教えますが、本願力は屍骸が蘇る不思議を言うのですね。
「佛法不思議といふことは 弥陀の弘誓になづけたり」

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...