「我もまた彼の摂取の中に在り」とは、源信和尚の御安心、親鸞聖人の正信偈の御文である。
聞かぬ者にこの言葉が出そうなことなく、我はよく聞いた、信心取ったと天狗になっている人に、この言葉の意味は分からぬ。
聞いて聞いたことを忘れ、信じて信じた手柄を自分の方につけぬ者にして、初めてこの一句の味が分かるのである。
この一句はいつも生き生きとしておる。この一句のうちに信者は日暮らしをしておる。この一句が味わえぬようなことでは、どうやらあやしいものだ。
自分に何の手柄もなく、力もなく、さとりもなく、智慧もなく、何一つした覚えもなくして「我もまた彼の摂取の中に在り」と、何とありがたいでないか。
これは大慈悲の極、佛智不思議の極致である。
稲垣瑞劔師「法雷」第57号(1981年9月発行)
2 件のコメント:
「我もまた彼の摂取の中に在り」
とありますが、
我亦在彼摂取中
の現代語訳の一つに
わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、
とあります。
わたしもだから、同じ信心なのです。
摂め取られてしまったら、もう手も足も出ません。罪状も過料もちがうけれど、お縄を頂戴した身はみな同じです。
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