2022年7月10日日曜日

我もまた

 「我もまた彼の摂取の中に在り」とは、源信和尚の御安心、親鸞聖人の正信偈の御文である。
 聞かぬ者にこの言葉が出そうなことなく、我はよく聞いた、信心取ったと天狗になっている人に、この言葉の意味は分からぬ。
 聞いて聞いたことを忘れ、信じて信じた手柄を自分の方につけぬ者にして、初めてこの一句の味が分かるのである。

 この一句はいつも生き生きとしておる。この一句のうちに信者は日暮らしをしておる。この一句が味わえぬようなことでは、どうやらあやしいものだ。
 自分に何の手柄もなく、力もなく、さとりもなく、智慧もなく、何一つした覚えもなくして「我もまた彼の摂取の中に在り」と、何とありがたいでないか。
 これは大慈悲の極、佛智不思議の極致である。

稲垣瑞劔師「法雷」第57号(1981年9月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「我もまた彼の摂取の中に在り」
とありますが、

我亦在彼摂取中
の現代語訳の一つに
わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、
とあります。

わたしもだから、同じ信心なのです。

光瑞寺 さんのコメント...

摂め取られてしまったら、もう手も足も出ません。罪状も過料もちがうけれど、お縄を頂戴した身はみな同じです。

空手にて いたゞく寳 無尽蔵

 今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。 役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。 「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。 念佛者は、信心歓喜の生活である。 稲垣瑞劔師「法雷」第91号(198...