佛法は言いっ放しでよい。佛語は万両の値打ちがある。千鈞の重みがある。掛け値がないから、言いっ放しでよい。
「心配するな」と言われたら、それ以上こちらから問い返す必要がない。
「きっと助けて下さいますか」などと佛に問うということは、佛を凡夫同様に考えておる浅はかな考えである。
佛語と自分との間に、自分の考えを差し挟むからいかん。佛語のまま受け取ればよい。それが無我の信心である。仰信という。
如来さまは私たちの思うているような佛ではない。我等の思いを超えて、大慈悲本願力でお助け下さるのである。文字や言葉は皆忘れてしまっても必ずお助け下さる。
如来さまは私たちが文字や言葉を覚えているから、その褒美に助けて下さるのでない。どうにもこうにもならぬ奴であるから、可哀想に思うて本願力の南無阿弥陀佛で助けて下さるのである。文字や言葉を忘れてしまって、お助け下さる佛智の不思議を信ずべきである。
親鸞聖人は『教行信証』化巻に
「信楽を願力に彰し 妙果を安養に顕さむ」
と仰せられた。「わしの信心か、それはな、それ、あの本願力が手強いから」といって、いつも本願力に眼をつけて、よろこばれた。
如来の本願ほど不可思議なものはない。「若不生者」と本願を建てて下された。その通りになるのが佛力であり、佛智の不思議である。
佛法を習うというのは佛の大慈悲心を習うことである。
佛は大智慧である、大慈悲である。大智、大悲のみが我等の真生命である。光明であり、無量寿である。よそをうろうろし、探し求めていては何百年経っても助かる時は来ない。
稲垣瑞劔師「法雷」第59号(1981年11月発行)
2 件のコメント:
佛は大智慧である、大慈悲である。大智、大悲のみが我等の真生命である。光明であり、無量寿である。
とありますが、
阿弥陀様とは、光明無量であり、寿命無量である。
仏とは、智慧と慈悲である。と聞かせていただいています。
この4つのキーワードの関係のうち、『唯信鈔文意』に、
「阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。」
と教えていただいています。
尽きることのない阿弥陀さまの慈悲の泉がほとばしり、衆生を目覚めさせてゆく阿弥陀さまの智慧がどこまでも照り抜いて下さいます。
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