三十年説教を聞いても、私は聞かぬ昔と少しも変わらぬ。自分で何ぞ変わった、有り難そうなところが出来たかというと、少しも変わらぬ昔のままである。
この心が少しは善くなったかと思うと、そうではなく、昔の通り腹も立つ、欲も出る、人の悪口言うのも止まぬ。
変わったところといえば、聞けば聞くほど、ますます地獄ならでは行き所のない、罪悪深重のいたずら者であるということを知らされただけである。
そして、今まで幾千万べん聞かしてもろうていても気が付かなかった「親様」が、「親様」ということが分かった。
また、今まで何べん聞いても眼が付かなかった「本願力」が、「本願力」と眼を付けさせていただいた。それだけのことである。阿弥陀様はありがたい。
阿弥陀様は、どんなものをお助け下さるか。
五逆罪を造ったものでも、佛法を謗ったものでも、佛法に縁の少ないものでも、回心懺悔して「親様なればこそ」と一たび「親様」ということに気付かせていただいたならば、必ず浄土に参らせていただける。有り難いことだ。
稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)
3 件のコメント:
「親様なればこそ」と一たび「親様」ということに気付かせていただいたならば、必ず浄土に参らせていただける。
とありますが、
往生の三カ条
三、南無阿弥陀佛にて往生す
往生の三か条
とありますが、三即一 一即三 であります。
順番に三つコメントさせていただきましたが、順番に揃えていくものではありません。
「落ちる」も「助ける」も佛さまの智見でありますから、佛智の信心の上では三三円融です。
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