今、五分間の後には、自分はどうしても死んでゆかねばならぬとなったらどうであろうか。
この世で造った罪業はもちろん、久遠劫来造った罪が、何とも言い知れぬ恐ろしい感情となって、死の床に来襲するであろう。病気の苦しみの上に、罪の責め苦に遭い、淋しく恐ろしく、何とも名状すべからざる有様になるであろう。妻子も財宝も、一つとして身に添うものはない。独り来たり独り去らなければならぬ。
この場に至っては、分かったとか分からぬとか、信心をいただいておるとか、まだ信心をいただいておらぬとかといった、凡夫自力のはからいを言うておる余裕はない。あと五分間の命よりない。
死に迫られている本人の苦悶はさることながら、如来様はそれを御覧になって、本人以上にお慈悲の涙を流しておられることであろう。
死の床に横たわっている人に対して如来様はどう仰せられるであろうか。
「そうか、お前は信心を得ていないから往生することができないと思っておるか、そうか、そうでもあろうが、今お前の命は終わらんとしておるではないか。命が終わったらお前はどこへ行くつもりか、地獄が大きな口を開けてお前を待っているではないか。今に及んで自分が信心があるかないか、自分の心の中を眺めている時ではないであろう。
お前は信心がないのを心配しておるが、わたし(阿弥陀親様)は、お前の信心があるかないかを調べようとは思っていない。今に臨んでそんなことに思い悩むことなかれ、
〈若不生者 不取正覚〉の本願力は常住不変であるぞ、お前の後生はおれ(如来)が引き受けた。心配するな、待っておるぞよ。わたしはお前のために正覚を取り、お浄土をつくったのである。おれはお前の親であるぞ」
と仰せられるにちがいない。
また如来様は臨終の病人に対して仰せられるであろう。
「信心がないというてもがいておるか、そうか、可哀想に、信心があればよし、なければよし、お前の思うておるような信心が何になるものか、はからいの信心がたよりになるのでなく、わたしがお前の依りどころである。
わたしは嘘をつかんぞ、〈若不生者 不取正覚〉である。わたしが生きておったらおまえの往生は大丈夫である。南無阿弥陀佛がおまえの往生の証拠であり、保証である。本願力が磁石となってお前を浄土へ引きつける。たとえお前がほっといてくれと言うたとて、ほっておかれぬ親心、どうぞわたしに助けさせておくれ」
と仰せられるにちがいない。
まことに忝く、たのもしき極みである。まだ信ぜられぬ、信心がいただけぬと言うておっては勿体ない。
無明長夜の燈炬なり 智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
佛智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず
稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)