2022年11月15日火曜日

方便

 佛法は、凡夫にとっては皆方便じゃ。方便でなくては凡夫には分からぬ。それに凡夫は、方便を方便と知らずして、はかろうて落ちる。
 自力の廃るのは、如来の無上の方便を、直ちに「大慈悲心」と受け取り、「佛智不思議」と受け取ったら、そのとき自力が廃る。

 「方便」はそのまま如来の「真実」じゃ。如来の大智誓願力じゃ。「般若方便を摂し、方便般若を摂す」とあって、方便を直ちに如来の般若の智慧と受け取るところに、生死を離れることが出来る。自分で般若がさとれるものか。悟られぬ迷いの凡夫やから、如来の方便が要る。

 方便となれば、人がどない言おうが「真宗は嘘じゃ」「佛教は間違いじゃ」と言ったところで自分は、うそと見ゆる方便道によって「一超如来地に入らせてもらう」ことの幸いをよろこべばよい。

 智者や学者は、弥陀の方便を捨てて自分で般若を悟ろうとする。わたしらには出来ぬこと、一生迷いの凡夫である。迷うておるから、如来の方便が有り難くいただけるのである。
 方便となれば、合点がゆこうがゆくまいが、一向かまわんでないか。合点して往生するのでない。なるほどなるほどと合点したら、おそらくは落ちなければなるまい。
 如来の大悲方便力によって往生するのである。そこを「けたはずれ」と言いたい。他人様は2×2が4で佛に成るかもしれぬが、わたしは2×2が5で往生する。

稲垣瑞劔師「法雷」第66号(1982年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

一超如来地に入らせてもらう
とありますが、

初めて聞いた言葉であり、少し調べてみました。
「一超直入如来地」が禅宗で使われており、積み上げる修行をすぐに超越して如来と同じ境地に入る
という意味でした。
何故、瑞劔先生が「直入」という言葉を省かれて使われたのか、あれこれと考えていたのですが、
浄土真宗では、この世で如来のさとり(仏覚)に入ることはできない、という事で「直入」を省かれたが、
この世で正定聚に入る(現生正定聚)ことはできる、という事で「一超如来地」と使われた、と思いました。

光瑞寺 さんのコメント...

「直入」が省かれていたとは気付きませんでした。確かに、正定聚と滅度の節目は大事ですものね。

また一方で「直」が使われているお言葉をお聖教に尋ねてみますと、「最勝の直道」「選択回向の直心」「直ちに来たれ」など、「迷わせぬぞよ」との如来様のお手回しと味わえることです。
一文字の有無に、深いお心が込められているものですね。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...