佛法は、凡夫にとっては皆方便じゃ。方便でなくては凡夫には分からぬ。それに凡夫は、方便を方便と知らずして、はかろうて落ちる。
自力の廃るのは、如来の無上の方便を、直ちに「大慈悲心」と受け取り、「佛智不思議」と受け取ったら、そのとき自力が廃る。
「方便」はそのまま如来の「真実」じゃ。如来の大智誓願力じゃ。「般若方便を摂し、方便般若を摂す」とあって、方便を直ちに如来の般若の智慧と受け取るところに、生死を離れることが出来る。自分で般若がさとれるものか。悟られぬ迷いの凡夫やから、如来の方便が要る。
方便となれば、人がどない言おうが「真宗は嘘じゃ」「佛教は間違いじゃ」と言ったところで自分は、うそと見ゆる方便道によって「一超如来地に入らせてもらう」ことの幸いをよろこべばよい。
智者や学者は、弥陀の方便を捨てて自分で般若を悟ろうとする。わたしらには出来ぬこと、一生迷いの凡夫である。迷うておるから、如来の方便が有り難くいただけるのである。
方便となれば、合点がゆこうがゆくまいが、一向かまわんでないか。合点して往生するのでない。なるほどなるほどと合点したら、おそらくは落ちなければなるまい。
如来の大悲方便力によって往生するのである。そこを「けたはずれ」と言いたい。他人様は2×2が4で佛に成るかもしれぬが、わたしは2×2が5で往生する。
稲垣瑞劔師「法雷」第66号(1982年6月発行)
2 件のコメント:
一超如来地に入らせてもらう
とありますが、
初めて聞いた言葉であり、少し調べてみました。
「一超直入如来地」が禅宗で使われており、積み上げる修行をすぐに超越して如来と同じ境地に入る
という意味でした。
何故、瑞劔先生が「直入」という言葉を省かれて使われたのか、あれこれと考えていたのですが、
浄土真宗では、この世で如来のさとり(仏覚)に入ることはできない、という事で「直入」を省かれたが、
この世で正定聚に入る(現生正定聚)ことはできる、という事で「一超如来地」と使われた、と思いました。
「直入」が省かれていたとは気付きませんでした。確かに、正定聚と滅度の節目は大事ですものね。
また一方で「直」が使われているお言葉をお聖教に尋ねてみますと、「最勝の直道」「選択回向の直心」「直ちに来たれ」など、「迷わせぬぞよ」との如来様のお手回しと味わえることです。
一文字の有無に、深いお心が込められているものですね。
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