自分の力で取られぬ信心を、取ろう取ろうとするところに病気がある。
ひるはひねもす 夜は夜もすがら
若不生者(本願力)と せまりくる
佛・菩薩の悟りの眼はすなわち、一切衆生を救いたいという大慈悲の眼である。ここに佛教独特の「大智」即「大悲」、「大悲」即「大智」の哲理と事実がある。
この意味において佛教は、大智の宗教であると共に、大悲の宗教である。しこうして佛の大慈悲心の示現が阿弥陀佛の本願力であり、それの成就のすがたが南無阿弥陀佛である。
何十年と聴聞していて信心が得られぬと言うている人は、その心の奥底を調べてみると、信心を取りたい、いただきたいと思う出発点の名残がある。信心をいただいたら心が浄くなるか、腹が立たぬようになるか、何か信前と比較して変わったところが自覚されなければならぬと思い詰めておるからである。
だんだんと本願力を聞かせていただくと、自分の心の汚さ、醜さ、罪の深きことなどは、聞かぬ昔よりも一層深く自分に見せつけられるものである。これは佛智円照の光明に照らされて見せられるのである。
信心を得たら、信心を得たという自覚がなければならぬ、自分はその自覚がないから、まだ信心がいただけておらぬのであろうと機嘆きをするのであるが、これまた心のどん底を調べてみると、その自覚を目当てに佛法を聞いているのであって、本願他力の謂われを聞かせてもらい、あて力になるものは、自分の自覚でなくて、本願力の広大さ、不思議さであるというところに心が落ち着いていないからである。それを聞き方の方向が違うというのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)
2 件のコメント:
本願他力の謂われを聞かせてもらい、あて力になるものは、本願力の広大さ、不思議さである。
「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」
と同じことを仰っておられます。
今まで自分が聴聞の目当てにしていたのは何であったか。「自覚を目当てに佛法を聞く」との言葉に呻らされました。自覚、納得、合点・・・、みんな聞く方向が逆でありました。
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