如来様の智慧と慈悲をいただいておるのであるが、分からぬ。あまりに広大無辺で分からぬ。今日まで生きさせていただき、佛法のいのちを頂戴しておることが、何よりの証拠である。後生の問題について苦の抜けたのが、これが親の智慧と慈悲のおかげである。
如来の智慧と慈悲は、月夜に霜の降りるごとく、いつの間に降りたか分からぬが、朝になれば霜は大地に降りておる。ちょうどそのようなもので、如来の智慧・慈悲・方便の念力は、こちらの知らぬうちに身心に徹到して、安心安堵の身にさせていただいたのである。
佛法は、自分が知っておるところにはない。自分も知らず、気の付かぬところに、早や染み込んでいて下さる。それで不思議に安心安堵させられたのである。自分が信心をいただいて安心しようと思うている間は、安心ができない。それは佛法を前の方にばかり眺めて、信心を取ろう取ろうとかかっておるからである。
如来の智慧と慈悲の南無阿弥陀佛は、私の後ろへ後ろへと回って、まだ心の動かぬ底にはたらいていて下されたのである。それでこそ他力御回向である。
心の思いは、そら遅い。「有り難い」と思わぬうちに、早や迷いの根を切って下されてある。根が切られた心ならば、何を思うても、何を思わないでも、そんなことはどちらでもよい。心が思うならば思わせておけ、思わなければそのままにしておけ。忘れていようが覚えていようが、そんなところに用事はない。お助け下さる如来の智慧と慈悲のはたらきには、少しも変わりはない。これほどきらくなことはない。それを信心とも、また安心ともいう。そんな言葉はどちらでもよい。言葉に用事はない。用事のない言葉が梯子となって下されて、今の用事のない身にしていただいたのである。
お聖教の言葉は、あれは如来様であり、如来の智慧・慈悲・方便なるがゆえに、梯子にもなって下され、捨て難きはからいすらも捨てさせて下されたのである。
昔は、心がはたらいている、その心が自分で佛法を聞き信心を取るのである、とばかり思うていたのであるが、まことの佛法は、私の心のはたらかぬ間に心の底へ回り、意識の動かぬ以前にまでも回って、悪業煩悩の根切りをして下さったのである。この佛と法の力を南無阿弥陀佛と申し上げるのである。
凡夫が分かるような浅い心にだけ南無阿弥陀佛がはたらくものであれば、不可思議光如来とは申さぬ。また不可思議の本願力とは申さぬ。本願の不思議は名号の不思議、名号の不思議は本願の不思議、それが佛智の不思議である。大慈悲力の不思議である。如来様、佛様というのは不思議に有り難い。有り難い不思議の力の御方である。
稲垣瑞劔師「法雷」第69号(1982年9月発行)