2023年1月30日月曜日

不思議のはたらき(一)

 如来様の智慧と慈悲をいただいておるのであるが、分からぬ。あまりに広大無辺で分からぬ。今日まで生きさせていただき、佛法のいのちを頂戴しておることが、何よりの証拠である。後生の問題について苦の抜けたのが、これが親の智慧と慈悲のおかげである。

 如来の智慧と慈悲は、月夜に霜の降りるごとく、いつの間に降りたか分からぬが、朝になれば霜は大地に降りておる。ちょうどそのようなもので、如来の智慧・慈悲・方便の念力は、こちらの知らぬうちに身心に徹到して、安心安堵の身にさせていただいたのである。

 佛法は、自分が知っておるところにはない。自分も知らず、気の付かぬところに、早や染み込んでいて下さる。それで不思議に安心安堵させられたのである。自分が信心をいただいて安心しようと思うている間は、安心ができない。それは佛法を前の方にばかり眺めて、信心を取ろう取ろうとかかっておるからである。
 如来の智慧と慈悲の南無阿弥陀佛は、私の後ろへ後ろへと回って、まだ心の動かぬ底にはたらいていて下されたのである。それでこそ他力御回向である。

 心の思いは、そら遅い。「有り難い」と思わぬうちに、早や迷いの根を切って下されてある。根が切られた心ならば、何を思うても、何を思わないでも、そんなことはどちらでもよい。心が思うならば思わせておけ、思わなければそのままにしておけ。忘れていようが覚えていようが、そんなところに用事はない。お助け下さる如来の智慧と慈悲のはたらきには、少しも変わりはない。これほどきらくなことはない。それを信心とも、また安心ともいう。そんな言葉はどちらでもよい。言葉に用事はない。用事のない言葉が梯子となって下されて、今の用事のない身にしていただいたのである。
 お聖教の言葉は、あれは如来様であり、如来の智慧・慈悲・方便なるがゆえに、梯子にもなって下され、捨て難きはからいすらも捨てさせて下されたのである。

 昔は、心がはたらいている、その心が自分で佛法を聞き信心を取るのである、とばかり思うていたのであるが、まことの佛法は、私の心のはたらかぬ間に心の底へ回り、意識の動かぬ以前にまでも回って、悪業煩悩の根切りをして下さったのである。この佛と法の力を南無阿弥陀佛と申し上げるのである。

 凡夫が分かるような浅い心にだけ南無阿弥陀佛がはたらくものであれば、不可思議光如来とは申さぬ。また不可思議の本願力とは申さぬ。本願の不思議は名号の不思議、名号の不思議は本願の不思議、それが佛智の不思議である。大慈悲力の不思議である。如来様、佛様というのは不思議に有り難い。有り難い不思議の力の御方である。

稲垣瑞劔師「法雷」第69号(1982年9月発行)

2023年1月25日水曜日

ひとりばたらき

 三部経に書いてあることを説明していただけば有り難い。有り難いが腹から信ぜられぬ。どうしたら信ぜられるか。御開山様が「信」の一字より『教行信証』を顕わして下さっているから、御開山様を見ることによって、どうしても信ぜられぬところを信じさせていただくのである。よき人を見なくては信ぜられぬ。
 祖師聖人のお聖教を七十年拝見しておるが、仰げばいよいよ高く、切ればいよいよ堅しである。聖人はただ人にてはおわしまさぬ。
  
 高祖親鸞聖人は「唯信独脱の法門」である。信心一つで往生、往生は信心が正因である。これを見抜き切って、
 「行一念の極まるところすなわち信一念なり」
と申され、信心以外のいずれの行も見ないというのが親鸞聖人である。『御文章』に曰く、
 「聖人一流の御勧化のおもむきはしんじんをもて本とせられ候」
と。

    空手で 佛法 聞きはじめ 空手で 浄土へ 初参り

 「空手」も0点の空手もあれば百点の空手もある。「空手」とか「わたしゃひょろひょろ」とか「このまま」というと、無安心でも疑いながらでも往生する、とこんな風に聞き違えたら大騒動である。
 往生は本願力の独りばたらきであり、すなわち南無阿弥陀佛の独立であって、こちらの方からは、信一つも、行一つも付け加えぬ、持ち出さないことを申したのである。
 「持ち出す」とは、自分の思いや知解分別に腰を掛けないことをいうのである。自分の心を見ておる間は、如来様の本願力もお留守、名号の威神力もお留守にしてしまう。それがいかん。

    仰いでは讃嘆 俯しては慚愧

 仰ぐときには仰ぎ切るがよい。自分を忘れて仰ぎ切るところすなわち自然に慚愧の心も出てくるのである。
 「仰ぎ切る」ことがむつかしい。「切る」とは己れ忘るることである。「己れ忘るる」とは如来様のお慈悲が強いものだから、それに打ち負かされることである。
 景色を見てもあまり美しい景色を見ると、筆も言葉も思いも皆忘れて、ああ美しい! と絶叫する。それが「己れ忘るる」というものである。

   ああ あの月が 讃うる声も 光りなり

 往生は如来様と自分一人の直々の見合いなるがゆえに、宿縁ある人は、南無阿弥陀佛の月の光りで南無阿弥陀佛の大悲を仰ぎうるならば幸甚である。

稲垣瑞劔師「法雷」第69号(1982年9月発行)

2023年1月20日金曜日

願力を明かす

  佛法力の不思議には 諸邪業繋さはらねば
  弥陀の本弘誓願を  増上縁となづけたり

 「業」(karma)とは、因より果に至る内面的・必然的の法則である。業の法則によって縛られておるのを「業繋」という。
 佛教では業を説く、自業自得といって、自分が罪を造ったら、自分がその報いを受けて苦しまなくてはならぬ。自分が為した業は、必ずその報いを自分が受けなくてはならぬ。それを「業報」といい、また「因果」という。これは天地自然の法則である。因果の法則も知らぬようなものは佛教は分からぬ。また信心もいただけぬ。

 他の宗教でも因果ということを少しばかりは知っておるが、一神教では神が人間の運命を支配するということを強く主張する。佛教では、神が運命を支配するのでなく、因果の法則によって人間の幸不幸があるという。
 因果を信ずると、罪人は地獄へ落ちるということが分かる。地獄へ落ちるというよりも、むしろ地獄の結果を自分が招くという方が正しい。
 因果の真理は厳粛だ。子供の時からこれを教え込んでおくがよい。人間の運命を司るような神は無い、神信心は迷信である。

 「増上縁」とは、結果を招く強い力ということである。水を湯にするには火熱を加えなければならぬ、その火熱が増上縁である。凡夫を佛にするには、如来の本願力がなければならない、その本願力が「増上縁」である。
 増上縁をまた「強縁」ともいう。佛法力不思議のことである。本願力を「願力」ともいう。本願力は大智慧力、大慈悲力、大誓願力である。

稲垣瑞劔師「法雷」第68号(1982年8月発行)

2023年1月15日日曜日

功徳

 佛法のことにお金を上げると、お寺の功徳には余りならぬが、自分の功徳になる。死んだ人の功徳には少しなる。けれども功徳になると思うたら功徳にならぬ。まあ何でも、上げてくれと仰ったら上げたらよいでないか。功徳・無功徳は忘れてあげるのが上上。

 何でも佛法の上では、その時その時の心によってすればよい。平素よう聞いておると、無心でやったことが佛法にかなう。平素聴聞しておらぬと、考えてしたことが悪う悪うなってくる。

 大金を上げるとお経様が丁寧に勤まる。それで死んだ人がそれを聞いてよろこぶ。それで少し功徳になる、余りならぬ。徳は生きている人に九分九厘、死んだ人に一厘だけゆくであろう。
 真宗としてお寺へお金を上げるときの心得は、上げさせていただくまでが佛様のお慈悲、こうならねばならぬ。
 お釈迦様の御臨終にお弟子が「どうぞこの御飯をお上がり下され」と頼んだことがある。頼んでいただいてもらう御仏飯。托鉢は、お米を貰ってやって、上げてくれる人に功徳を積ませようとせられる佛心のあらわれである。
 「上げてくれ」と頼む僧も欲心から頼むのでない、向こうの人に徳を積まさんと思うて頼むのである。これは上げてくれと言う側の心得。

稲垣瑞劔師「法雷」第68号(1982年8月発行)

2023年1月10日火曜日

光明

 無量光

 衆生が無量であるから光明も無量、これで無量の衆生が助かる。一人一人に阿弥陀様は光明となって付いて下さる。
 極楽は私の極楽、阿弥陀様は私の阿弥陀様、となると、他の方は極楽、私は地獄と心配することは要らぬでないか。阿弥陀様は他人の阿弥陀様と思うから、助けて下さるであろうか助けて下さらぬであろうかと疑いを生ずるのである。私一人の阿弥陀様となれば、いつもいつも安心。

真実明

 私の胸のうちは「真っ暗がり」、暗がりではお浄土へ参られぬ。その暗い胸を明るうして下さるのが阿弥陀さま。それで阿弥陀様のことを「ほんまの光り(真実明)」と申し上げ奉る。
 暗がりで参るか、明るうなって参るか、ここのところは難問題。どうじゃどうじゃ。私の胸を眺めたら暗いのが地性、盲目を手を取って渡してくださるのが如来様。「明るうなろう」と力むことはいらぬ。
 くらがりの、落ちる姿のまま、お助けの御本願である。お力をたのむのが肝心である。佛法は、言葉の端に引っかかっておると夜は明けぬ。

 どうせ ろくに聞かぬ私
 それをお目当ての御本願
 不思議 不思議

 「お前の後生を引き受けたぞ」と仰るのに、それが不足で「暗い」「明るい」を穿鑿しておるのか。方角が違うぞ。
  

無碍光

 佛様のお慈悲の力に勝つものはない。障りの無い光明、悪業煩悩にも障りなくお照らし、どんなことが起こっても、どんな機ざまでも、そんなことには邪魔にはならぬ。
 佛法は何でもかでも「お助け」と言うから、分かったようで分からぬことが多い。
 「助かろう」となると、助かるようにこちらの心を合わせていく気持ちになる。「助からぬもの」ときまっておるのであるから、「ほんまに助からぬものは私でございますなあ」となったら、そのうちから、如来様の無碍の光明があらわれて下さる。これぞ佛智一乗、大乗の極致である。

稲垣瑞劔師「法雷」第68号(1982年8月発行)

2023年1月5日木曜日

肚の据わり

 腹というものは、立ちやすうて据わりにくいものである。
 お釈迦様の仰ることは嘘ではない。善導大師、法然聖人、親鸞聖人のお言葉を信ずるので、自分の後生が極まる。

 いろいろ書物を読んでみたが、どの書物もカスカス、自分の生命(いのち)となり、血液となる書物は佛法の本ばかり。佛法の中でも浄土真宗のお聖教は、ほんまの生命の水である。
 世の中は迷信か無宗教か、無安心か異安心か。これでは困ったものである。

 佛法が腹に入ると「困った」ということはなくなる。これは不思議である。そのわけは、
 因縁を知るからである。
 欲を出さぬからである。欲のないものは無いが、曲がった欲は出さぬ。
 それで諸天善神のお守りがある。

 佛法の尊さ  これに肚が据わって
 心の不思議  これに目をつけて
 本願力の強さ これで安心 これで安心。

稲垣瑞劔師「法雷」第68号(1982年8月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...