佛法のことにお金を上げると、お寺の功徳には余りならぬが、自分の功徳になる。死んだ人の功徳には少しなる。けれども功徳になると思うたら功徳にならぬ。まあ何でも、上げてくれと仰ったら上げたらよいでないか。功徳・無功徳は忘れてあげるのが上上。
何でも佛法の上では、その時その時の心によってすればよい。平素よう聞いておると、無心でやったことが佛法にかなう。平素聴聞しておらぬと、考えてしたことが悪う悪うなってくる。
大金を上げるとお経様が丁寧に勤まる。それで死んだ人がそれを聞いてよろこぶ。それで少し功徳になる、余りならぬ。徳は生きている人に九分九厘、死んだ人に一厘だけゆくであろう。
真宗としてお寺へお金を上げるときの心得は、上げさせていただくまでが佛様のお慈悲、こうならねばならぬ。
お釈迦様の御臨終にお弟子が「どうぞこの御飯をお上がり下され」と頼んだことがある。頼んでいただいてもらう御仏飯。托鉢は、お米を貰ってやって、上げてくれる人に功徳を積ませようとせられる佛心のあらわれである。
「上げてくれ」と頼む僧も欲心から頼むのでない、向こうの人に徳を積まさんと思うて頼むのである。これは上げてくれと言う側の心得。
稲垣瑞劔師「法雷」第68号(1982年8月発行)
2 件のコメント:
「功徳」は、ついつい間違ってしまう言葉です。
つまり、ついつい私が功徳を積んでいると思ってしまうのです。
ところが、浄土真宗では、阿弥陀仏の功徳であります。
勤行の最後に「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」と
お唱えさせていただきますが、この功徳も私が勤行をして得た功徳ということではなく、
この功徳は阿弥陀仏の功徳であります。
「佛さまの功徳」という視点が抜けてしまうと、どうしても自分の善行のポイントがたまる程度に考えてしまいます。「不可称不可説不可思議の功徳」「功徳宝海」と仰がせていただきます。
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