佛法力の不思議には 諸邪業繋さはらねば
弥陀の本弘誓願を 増上縁となづけたり
「業」(karma)とは、因より果に至る内面的・必然的の法則である。業の法則によって縛られておるのを「業繋」という。
佛教では業を説く、自業自得といって、自分が罪を造ったら、自分がその報いを受けて苦しまなくてはならぬ。自分が為した業は、必ずその報いを自分が受けなくてはならぬ。それを「業報」といい、また「因果」という。これは天地自然の法則である。因果の法則も知らぬようなものは佛教は分からぬ。また信心もいただけぬ。
他の宗教でも因果ということを少しばかりは知っておるが、一神教では神が人間の運命を支配するということを強く主張する。佛教では、神が運命を支配するのでなく、因果の法則によって人間の幸不幸があるという。
因果を信ずると、罪人は地獄へ落ちるということが分かる。地獄へ落ちるというよりも、むしろ地獄の結果を自分が招くという方が正しい。
因果の真理は厳粛だ。子供の時からこれを教え込んでおくがよい。人間の運命を司るような神は無い、神信心は迷信である。
「増上縁」とは、結果を招く強い力ということである。水を湯にするには火熱を加えなければならぬ、その火熱が増上縁である。凡夫を佛にするには、如来の本願力がなければならない、その本願力が「増上縁」である。
増上縁をまた「強縁」ともいう。佛法力不思議のことである。本願力を「願力」ともいう。本願力は大智慧力、大慈悲力、大誓願力である。
稲垣瑞劔師「法雷」第68号(1982年8月発行)
2 件のコメント:
その本願力が「増上縁」である。
とありますが、
『教行信証』「行巻」には、
「然覈求其本 阿弥陀如来為増上縁」
しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。
と教えていただいております。
善導大師も「増上縁」とお使いですね。以前はこの語感に「付け出しで加える助縁」といった補助的なイメージを抱いていましたが、根本的な勘違いでした。
いくら火を燃やしても水がなければ湯はできません。
因果の道理の上では、あくまで私が主体であり、乗った私が必ずさとりの岸に着くからこそ、乗せて渡すぞの船は、この上ない増上縁なのでした。
主伴を見誤った理解というのは、私抜きに船だけが走って行くようなものを考えているかもしれませんね。
コメントを投稿