三部経に書いてあることを説明していただけば有り難い。有り難いが腹から信ぜられぬ。どうしたら信ぜられるか。御開山様が「信」の一字より『教行信証』を顕わして下さっているから、御開山様を見ることによって、どうしても信ぜられぬところを信じさせていただくのである。よき人を見なくては信ぜられぬ。
祖師聖人のお聖教を七十年拝見しておるが、仰げばいよいよ高く、切ればいよいよ堅しである。聖人はただ人にてはおわしまさぬ。
高祖親鸞聖人は「唯信独脱の法門」である。信心一つで往生、往生は信心が正因である。これを見抜き切って、
「行一念の極まるところすなわち信一念なり」
と申され、信心以外のいずれの行も見ないというのが親鸞聖人である。『御文章』に曰く、
「聖人一流の御勧化のおもむきはしんじんをもて本とせられ候」
と。
空手で 佛法 聞きはじめ 空手で 浄土へ 初参り
「空手」も0点の空手もあれば百点の空手もある。「空手」とか「わたしゃひょろひょろ」とか「このまま」というと、無安心でも疑いながらでも往生する、とこんな風に聞き違えたら大騒動である。
往生は本願力の独りばたらきであり、すなわち南無阿弥陀佛の独立であって、こちらの方からは、信一つも、行一つも付け加えぬ、持ち出さないことを申したのである。
「持ち出す」とは、自分の思いや知解分別に腰を掛けないことをいうのである。自分の心を見ておる間は、如来様の本願力もお留守、名号の威神力もお留守にしてしまう。それがいかん。
仰いでは讃嘆 俯しては慚愧
仰ぐときには仰ぎ切るがよい。自分を忘れて仰ぎ切るところすなわち自然に慚愧の心も出てくるのである。
「仰ぎ切る」ことがむつかしい。「切る」とは己れ忘るることである。「己れ忘るる」とは如来様のお慈悲が強いものだから、それに打ち負かされることである。
景色を見てもあまり美しい景色を見ると、筆も言葉も思いも皆忘れて、ああ美しい! と絶叫する。それが「己れ忘るる」というものである。
ああ あの月が 讃うる声も 光りなり
往生は如来様と自分一人の直々の見合いなるがゆえに、宿縁ある人は、南無阿弥陀佛の月の光りで南無阿弥陀佛の大悲を仰ぎうるならば幸甚である。
稲垣瑞劔師「法雷」第69号(1982年9月発行)
2 件のコメント:
信心一つで往生、往生は信心が正因である。
とありますが、
「信心正因 称名報恩」であると教えていただいています。
ただ信ずるのみで救われる法門であります。
名だたる高僧方が「行」を競い合う中にあって、「行の究極は信である」と言い切ることのすごさ、これはすごい。
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