ただ信ずればよい。阿弥陀様は尊いお方であると、ただ信ずればよい。
その信ずることが出来ないというのは何故であるか。曰く、自分が死ぬるということと、業の報いは恐ろしいということと、もう一つは、佛とはどういうお方であるかということを、よくよく聞かぬからである。
また本願が自分の機(妄念の凡夫)に相応したる尊さを、しみじみ感ぜぬからである。
佛様とはどういう御方であるか。それには先ず人間を土台に考えてみると、人間は皆凡夫であって、今現に八万四千の煩悩になやまされ、四苦八苦の苦しみを受けておる憐れな有情である。嫌ではあるが、生死の苦界に迷い出た以上、宿業をどうすることも出来ない。
その八万四千の煩悩、実は無数無尽の煩悩を、願行を修して、一つ残らず断じてしまったら、どんな人間が生まれてくるであろうか、想像してみるがよい。
心が清浄真実に成り切ったならば、随って大悲心が生じ、大智の眼が具わる。それが佛である。それが如来である。
殊に阿弥陀如来は、その大悲大智の眼を以て一切苦悩の有情を御覧になって、「ああ可哀想だ、どうしても如来の念力一つで、一切衆生を救わねばおかぬ」という大悲の本願を発したもうたのである。
すなわち、阿弥陀如来という親様には「無量力功徳」がある。「威神功徳不可思議の力」がある。こう言えばよく分かるでないか。それが信ぜられぬというのはどうしたものか。
理屈は分かっても、自分の死と、佛・法・僧の三宝と、因果の真理が分からぬうちは、ほんとうに佛様が分かったとは言えぬ。
因縁まかせとはいうものの、佛法をよくよく聞いて、深く内に顧み、偽らざる自己のすがたを見る、ということが大切である。
信ずるとは、佛力一つ、佛の誓願力、南無阿弥陀佛一つで助かるという事実より外には無いのであるが、この事実を事実と、心の底から受け取るまでには、なかなか苦労が要る。一生涯の努力を捧げねばならぬ。ちょうど家を建てるのに、土台と足場に骨が折れるようなものである。
稲垣瑞劔師「法雷」第70号(1982年10月発行)
2 件のコメント:
「大悲」とありますが、
大きな悲しみという意味ではありません。
「大慈悲心」ということで、慈悲のこころというのは、
抜苦与楽のこころで、苦しみを抜いて安らぎを与えたいという慈しみのこころです。
それに、大の字がついているのは、仏様の心ということです。
「大悲」とは、仏様が私たちに対しての慈悲のこころということになります。
如来様が私たちに向けてくださるものが慈しみ唯一つであるならば、私たちの為すべきことは「学佛大悲心」(観経疏)に尽きます。
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