「行」というと、滝に打たれたり、お経を読んだり、坐禅をしたり、断食をするもの、というのが一般の人の通念であろう。
大戦中は、「他力本願では戦争に勝たれぬ、自力でなくてはいかん」と言ったものだ。そうかといって、各学校の生徒は義務的に月一回神社に詣って戦勝の祈願をさせられたのであった。戦争と宗教とごった混ぜにしておったのである。
現代でも、祈祷と信心の区別さえも分からぬ人が多い。何が真実の行やら、何が真実の信やら、その知識さえもうとうとしいものである。
佛教では各宗とも、行信を重んずる。随ってその研究も詳密を極めておる。
聖道門では、八正道や六波羅蜜(戒定慧の三学)を「行」という。この場合、菩薩は「行」によって佛果に登るのであるから「進趣」の義がある。
小乗佛教では、十二因縁を説く場合に迷いの第一原因を無明と為し、第二を行としてある。この場合の「行」は諸行無常のことで、移り変わること(遷流)を「行」(Samskãra)というのである。
禅宗では、第一の行は坐禅であるが、また托鉢や作務も行の中に数えられる。
浄土宗では、善導大師が『観無量寿経』の下々品の臨終の念佛に重きを置いて、その意を以て『大経』をも解釈して念佛往生を創められたから、称名念佛することが「行」と考えておる。
浄土真宗は『大経』に据わって、第十八願を五願に開いた上で「唯信正因」「唯信別選」を主張する。
その時の行は、信心海から流れ出た、報恩行としての称名念佛を「行」というのである。また南無阿弥陀佛を「大行」と呼んでおる。
さらに遡れば、「大行」というのは、法蔵菩薩が五劫に思惟し、兆載永劫の間修行せられた八正道・六波羅蜜(大悲)の行、すなわち菩薩の行業が「行」である。それ故に「行」とは「行業」の意味である。
また信心(信)に対して「南無阿弥陀佛」を「大行」といい、信心が流れ出る念佛を「行」という。この行は衆生を往生せしむる「大道」である。法雷学派では、行を進趣の義に用いない。
稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)
2 件のコメント:
聖道門では、…「行」に…「進趣」の義がある。
法雷学派では、行を進趣の義に用いない。
とあります。
つまり、進趣とは何かというのがとても重要になります。
『広辞苑』には出ていませんが、
進趣とは、(さとりに向かって) 修行し進むこと。
とありました。
「行」を「行歩(ぎょうぶ)」と解するところから、多く古来の学者は「行は進趣の義なり」というたのであるが、進趣の義に取ることは聖道門の頭である。
「教・理・行・果」(心地観経)というように、「行によって証果に進ましめる」と取るときには、そこには漸進の意味が含まれ、部分的なものとなる。
「行業」と取るときには、佛菩薩のなされる聖業の全体的な意味が顕される。
また、「進趣」には「陸路の歩行はすなはち苦しく」が連想され、「水道の乗船はすなはち楽し」といった意味は顕れない。云々
稲垣瑞劔師編『教行信証大系』第二巻より
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