2023年5月10日水曜日

一機一法

 本願力の南無阿弥陀佛を、どれほどの力、どれほどの功徳力と思うておるのであるか。本願力の南無阿弥陀佛こそ、阿弥陀如来の不可思議の誓願力であり、真如一実の功徳宝海である。如来の仕事のほかに我が往生はない。如来の本願力のほかに、成佛の因もなければ果もない。
 「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」をどう聞いたか、どう聞こえたか。どう信ぜられたか、どう安心せしめられたか。聞こえたも聞いたも、安心したも信心取ったも、あったもんかい。
 「弥陀の誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」である。「それならば、信心がなくても往生できますか」と問いたいであろう。問うことを止めて、「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」を、「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」と仰ぐがよい。

 南無阿弥陀佛は、如来のはたらきである。如来のはたらきは、誓願不思議であり、正覚のはたらきであり、正覚の功徳力である。如来の因位のはたらき、果位のはたらきは、そもそも誰の為のものであるか。

 此処に苦惱の衆生がおる。苦惱の衆生とは他の人ではない。此処におる「私」のことである。如来様はこの苦しんでおる私一人の為の如来様である。南無阿弥陀佛は、如来の生命であり、佛智であり、本願力であり、また如来の無量力功徳である。ゆえに始めも終わりも、玄関も奥座敷も、

 「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」

である。南無阿弥陀佛はまた、如来の念力であり、摂取衆生力であり、大智慧力であり、大慈悲力である。また大三昧力、大降魔力である。如来の無量力功徳のみが煩悩具足の凡夫、この私を佛になしたもうのである。信心とは佛の無量力功徳を憶念し、誓願力を憶念することである。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

信心とは佛の無量力功徳を憶念し、誓願力を憶念することである。
とあります。

憶念とは何かというのが、とても重要になってきます。
いろいろと、説明されるのを見聞きしますが、私は「憶念」は「信心」と読み替えています。
『唯信鈔文意』には、
憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。
とあります。

光瑞寺 さんのコメント...

今のこの私のためのご本願、私ひとりの如来様、となれば憶念の心絶えずして、忘れていても忘れ給はぬみ親とうとし。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...