『碧厳集』に曰く、
「髑髏 識尽きて喜び何ぞ立せん」
と。白骨になったら、喜びも悲しみもない。
又曰く、
「枯木龍吟銷して未だ乾かず」
と。枯木となれば声もなく音もなし。生命なしと思うなかれ、秋風颯颯として吹き、寒風蕭蕭として枯木に当たるや、ひゅうひゅうと音を立てて呻る。是れ天籟の音楽なり、聞く人有りや無しや。
人間が生きておるうちは、喜怒哀楽愛悪欲の七情に囚われ、是非善悪に囚われ、智愚・褒貶によって愛憎の波瀾を上げ、瞋恚の焔を燃やしておる。これがまことの人生か、真人なりや否や。
没量の大人は大死人の如し。生きておるまま、一度死んでこい。死んだまま生きておる人の声は尊い。声なき声を聞け、屏風に描かれた松風の音は美しい。生まれぬ前の父はこいしい。生前の一句、聞く人有りや無しや。
愛憎と善悪と智愚を超えて、超えたところから声を出したら、それが
「枯木龍吟」
である。
愛憎、智愚、善悪、是れ何ぞ、その結果や如何。
大死人の声は是れ心性の響きであり、その情は如来の大慈悲心である。念佛せよ、念佛せよ。念佛、何処より来たるか。雨が降る、雨、何処より来たるか。風が吹く、風、何処より来たるか。
無心の世界から来たるではないか。無心・無我から来たるものは、ほんまものである。愛憎より来たるものは、怒りであり、愛欲である。千に一つも得になるものはない。哀れなる哉、愛憎の奴隷、その奴隷は誰であるか、何処にあるか。
大死一番し「枯木龍吟」の声を聞く人にして始めて自己を知り、自己の地位を知る。自己を知る人有りや無しや。自己を知るは自己を忘るるなり。自己を忘れた境地より発する声を、
「枯木龍吟」
という。如来のみあって、能く是を発す。清浄にして真実なるものは如来の声である。
「南無阿弥陀佛」
がそれである。清浄真実の声を聞くには、阿呆がよい、阿呆がよい。赤児がよい、赤児がよい。大馬鹿者は能く「枯木龍吟」を聞く。聞くこと易し、聞くこと難難。
自己を忘れた如来の声は、自己を忘れて聞かなくては聞かれぬ。本願招喚の勅命は、ただそのままに聞け。聞くにあらず、信ずるにあらず、ただ招喚の声のみが響いておる。風に吹かるる柳のごとく、声に風化するまで聞くがよい。
花も花 月もむかしの月なれど ただそのものに なりにける哉
佛法は 聞くでなし 信ずるでなし ただよびごえの 響き渡れる
耳で見て 眼で聞くならば 疑わじ 枯木龍吟 軒の玉水
とはいうものの 人生は苦しい 怒るなよ 怒るなよ
生も死も 佛とともに 旅の空
死にがけに 何が残るか 何があるか 夢じゃ 夢じゃ
たのみになるは 弥陀のよびごえ ただひとつ 本願力は 大きいでなあ
臨終の病人さんが枯木じゃ。枯木であるが、未だ龍吟せず、龍吟を聞かぬ、これでは犬死に同様の病人である。枯木の口より出ずる念佛は、これぞまことの龍吟である。
枯木になれ 枯木になれ。眼で見るな 耳で聞くな。
枯木龍吟に徹した人は 言うこともなし 聞くこともなし
煙草の煙となって はいさようなら 夢が覚めたら お浄土じゃ
波立ちて しばしくだけし 月かげの やがて円かに ゆめさめしころ
枯木龍吟 言うこともなし 聞くこともなし 本願力のひとりばたらき
昭和四十五年三月十三日 瑞劔 八十五歳