三十一、ただ本願力の不思議を不思議と仰ぎ、如来の「まこと」を「まこと」と忝くいただくのみである。阿弥陀様はありがたい。
三十二、「至心信楽己を忘れて無行不成の願海に帰す」(報恩講式)
「行け来いの中で忘るる己れかな」(瑞劔)
阿弥陀様はありがたい。
三十三、歓喜相続は、大慈悲心の中から薫発するのである。金剛堅固の信心は佛の相続より起こる。阿弥陀様はありがたい。
三十四、「本願一乗絶対不二の教(行)」のまま「絶対不二の金剛の信心(機)」である。阿弥陀様はありがたい。
三十五、佛心と凡心と感応道交して、佛凡一体とならしめたもう。阿弥陀様はありがたい。
三十六、本願名号は極楽からの特別招待券である。よんで下さるればこそ、私のような愚かものでも参らせていただくのである。阿弥陀様はありがたい。
三十七、誰も彼も、如来様の本願力に乗じて往生するのである。阿弥陀様はありがたい。
三十八、「若不生者不取正覚」のお誓い、願力摂取して往生を得せしめたもう。阿弥陀様はありがたい。
三十九、「往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし」(執持鈔) 阿弥陀様はありがたい。
四十、天を拝せず、神に祈らず、吉凶を占わず、良吉日をえらばず、余道に事(つか)えず、雑行雑善に心をとどめず、来迎たのむことなし。ただ一心に進んで本願一実の白道を歩ませていただく身の幸。阿弥陀様はありがたい。
「南無阿弥陀佛をとけるには 衆善海水のごとくなり
彼の清浄の善身にえたり ひとしく衆生に廻向せむ」
四十一、願力の不思議によりて佛智の不思議を仰がせていただく。佛教と佛意と佛願に順うのが真の佛弟子である。阿弥陀様はありがたい。
四十二、本願力を信受する佛智の眼をいただいて、自分の機を知らせていただいた。阿弥陀様はありがたい。
四十三、「佛力難思なれば古今も未だあらず」。信心の人はお浄土を望み、「若不生者」の本願、佛智の無限の世界を常に望んでおると、年と共に信力増上するのである。阿弥陀様はありがたい。
四十四、本願力に乗じて全く私なき親鸞聖人を常に仰がせていただいておる。この慶びは何にたとえようもない。阿弥陀様はありがたい。
稲垣瑞劔師「法雷」第74号(1983年2月発行)
2 件のコメント:
「歓喜相続は、大慈悲心の中から薫発する」
とありますが、
「薫発」は広辞苑に見当たらず、使われることが少なくなったのだと思います。
「薫じて生じさせられる」という意味でしょうか。
歓喜が次々と起こるのは、賜りたる信心によって、薫じて生じさせられる。
ということになります。
一語ずつ丁寧にお調べくださりありがとうございます。
きっとどこかの佛書には使われている言葉なのでしょうが、浅学ゆえ分かりかねます。
薫りが衣に染み付くように、自らの行為が自らの心に習い性として染み付くことを「薫習(くんじゅう~」というように、如来様の大慈悲が染み付いた(薫習した)信心の泉から歓喜があふれ出す・・・といった意味でしょうか。
コメントを投稿