佛教の勉強は、物知りになるために勉強するのでない。名利のために勉強するのでない。
一冊読んでも一句の法門を頂いても、直ちに自分の後生の問題と結び付けて、読みもし、考えもしてゆくことが大切である。でないとお聖教の意味は分からぬ。心得事である。
稲垣瑞劔師「法雷」第75号(1983年3月発行)
六、称名念佛をはげむ人 滋賀県にある一人のお坊さんがおられる。なかなか立派な、まじめな御僧である。そのお方は、第十八願の純粋他力の信心を長い間求められたが、どうしても「佛智即行」とか「尽十方無碍光如来一法身 (いっぽっしん) の独立」とか「本願力一つ」とか、また法然上人のお歌...
2 件のコメント:
自分の後生の問題
とありますが、
まさに実践的な教えが、仏法であります。
いくら色んな言葉を覚えても、勉強しても、
知者になっても、仏法の先生になっても、
後生には全く役に立たない。全部置いて、
後生に旅立つのです。
健康で思い通りに事が進んでいますと、後生をおろそかにしがちです。
重ね重ねのいましめ、肝に銘じなくてはなりません。
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