亀山の本徳寺において一布教使から質問を受けたことがある。曰く、
「臨終の迫った一老人がどうしても疑い晴れぬと悩み抜いているのを見て、〈疑っておってもそのままお助け下さる阿弥陀佛であるぞ〉と教えたら、非常に喜んで安心して往生した。平生に、疑いながらの往生を説くことの不可は知っているが、特別な場合には臨機応変、之を説いてもいいかと思いますが如何ですか」
私(利劔師)は、それに答えて言いました。
「それはいかぬ。第一、貴方が人に信心を頂かしてやるという態度が悪い。又、その老人が信心を頂いて往生したという考え方も悪い。
『法苑珠林』という書に臨終の種々なる相が説いてあるが、外から見れば結構な往生と見えたのに、実は天人と見えたのは鬼であり、奇麗な輿と見えたのは火の車であったり、お浄土に生まれたと思ったのが実は地獄であったり、其の他このような例が沢山述べてある如く、〈往生〉〈信心〉のことは人間の認識の及ばぬ世界である。
またたとい臨終といえども、間違った勧め方をしてはならぬ。我等は教えられたままを素直に、そのまま話せばよいのであって、佛縁ある者はこれによって信を得るであろうし、佛縁無き者は往生できぬかも知れぬが、仕方がない。
我等はただ本願の不思議を喜ぶことのみを許されているのである。宗乗を学ばず、自己の体験を主とする人にはこの間違いが生じやすい」と。
稲垣瑞劔師「法雷」第75号(1983年3月発行)
2 件のコメント:
宗乗(しゅうじょう)
とありましたので、調べてみました。
自宗の教義。宗義。とありました。
自分の信じる宗教の教えは、正確にしっかりと学ぶことが大切です。
話す立場のものがよく気を付けなければならない点です。
『御文章』にも「われひとりよく知り顔の風情は、第一に憍慢のこころ」(三帖12)と誡められております。
コメントを投稿