真理というものは、一方から見てはわからぬ。真理は八面玲瓏ですきとおったものであるが、そのすきとおった真理の顔は千万無量の顔を持っておるから、小乗佛教から眺め、大乗佛教から眺め、華厳から、天台から、真言から、禅から、浄土から、三論から、法相から、また現代科学から、哲学から、すべての方面から眺めて、大きいところに立ち、高いところに立って、いよいよほんとうの真理は何か、どこにあるかということを知らねばならぬ。これはなかなか普通の人で出来ることではない。
そこで我等としては、先ずお釈迦様の仰せはすべての真理をあらわしておられると信じて、一句の法門でも大切にいただくに限る。
如来の言葉は、一語に無量の義を含んでおる。無量の義を一語、一句におさめておる。如来の言葉の外に、生死を離れて無量寿の生命に入るべき道はない。
真理が無限の数多き顔を持っておるということをさとると、八万四千の法門も、なるほどなるほどとありがたく受け取れる。
八万四千の法門は、私のためには、南無阿弥陀佛の中におさまっていてくださる。何の不足もない。
真理として、私が往生成佛の真実の利益を得ること以外に、私にとって真理はない。
稲垣瑞劔師「法雷」第76号(1983年4月発行)
2 件のコメント:
真理が無限の数多き顔を持っておる
とあります。
親鸞聖人は『浄土文類聚鈔』に、「摂取不捨の真理」と
表わされています。この真理は、摂取して捨てない真理である。
と教えていただいております。
透きとおって色もなく形もましまさぬ「真理」が、そのまま形を取って願行となり、よびごえとなって「お前を捨てぬ」とはたらき続けてくださっています。
昔は「不生不滅の真理を、なぜ本願として誓ったり声にしたりできるのか」と疑問に思っていましたが、土台が違っておりました。
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