佛法の真の味わいは、ただ佛語を仰ぐのみである。この外に、根もなければ葉もない。深いこともなければ、浅いこともない。
佛語が如来であり、佛語を信じ仰ぐことまでも皆これ如来である。南無阿弥陀佛である。本願力である。一句のお言葉でも、それが一切経の全体、宇宙の真理の全体、我が往生の全体、信心の全体、それが如来であり、同時に我が生命であり、安心の依りどころである、と思うべきである。
佛の言葉を仰ぎ信ずるほかに佛法もなく、信心も往生もない、とよくよく思わぬと、信心の暁に出ることは出来まい。「経と佛語にしたがへば 外の雑縁さらになし」である。これは佛法の秘訣である。
佛語は真実であり、甚深微妙である。佛語に順う以外に信心がないのである。佛語が信ぜられぬというのは、佛様を一寸えらい人である位に思うているのである。佛が、ほんとうに佛だ、不思議な、有り難い佛だと分かれば、そのお言葉は信じまいと思っても信じられるはずである。
稲垣瑞劔師「法雷」第76号(1983年4月発行)
2 件のコメント:
南無阿弥陀佛である。
とあります。
お釈迦様は、『観無量寿経』に、「称南無阿弥陀佛」と説かれた
とあります。
親鸞聖人は、南無阿弥陀佛を「摂取不捨の真言」と表されています。
摂取して捨てないという真の言葉であると教えていただいています。
行巻初めに
「大行とはすなわち無碍光如来の名を称するなり。」
とまず〈称名〉を出し、続いて
「この行はすなはちこれ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。」
と〈名号〉の徳を挙げ、結びに
「極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく。」
と大行の源は真如の徳にあることを掲げておられます。
一切の法門も教法も、私たちが信心をいただくことまでも、真如の外なるものはありません。真如が一すじにはたらいて、虚仮不実の私たちに真実のはたらきを成就するものこそ南無阿弥陀佛であります。
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