57 佛様は法界自然の法則を教えてくださった。法に外れ、法に背けば苦しまねばならぬ。これが因果の法則である。阿弥陀さまはありがたい。
58 因果の法則も生きておる。如来の本願力も生きておる。ここのところがどう収まるか。収まるから不思議だ。一切の矛盾は信心の徳のうちに解決される。阿弥陀さまはありがたい。
59 佛智大悲の勅命の前に、聞かぬ昔の赤児にしてしまわれた。罪悪重きこのいたずらものを、親様なればこそ。阿弥陀さまはありがたい。
60 自分は何も知らぬいたずらものであるが、親様が知ってござる。親様は佛様である。まかせても大丈夫、まかせ甲斐がある。心配がない。親様につれられてお浄土へ参る。阿弥陀さまはありがたい。
61 佛教は佛様の「智眼」と「大慈悲」と「本願」による宇宙人生の根本的解決であって、凡夫が自己に目覚める願力自然の真理を示し、「心(しん)佛(ぶつ)及(および)衆生(しゅじょう) 是三(このみっつは)無差別(さべつなし)」の絶対最高の次元を教え、生死の苦海を超えて真の自由を得せしめ、また雑染(ぞうぜん)の人類歴史を超えて真浄なる佛陀の歴史を創るところの教えである。阿弥陀さまはありがたい。
62 諸佛如来と凡夫とは、智慧と慈悲において次元が違う。如来の勅命はそのままに信受すべきである。たよりになる勅命である。次元が違うとは、また世間道と出世間道との違い、通途(つうづ)の因果と本願力不思議の相違、迷いと悟りの相違である。阿弥陀さまはありがたい。
63 如来様はすでに至心・信樂・欲生の三心を御成就くだされて、私の往生については如来様が決定しておられる。これほど確かなことはない。私としては唯だ「心配するな」の勅命に「忝い」とおまかせするのみである。阿弥陀さまはありがたい。
64 「竊(ひそか)におもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
「夫れ無碍難思の光耀は苦を滅し楽を証す。万行円備の嘉号は障りを消し疑いを除く」
これは親鸞聖人のはらわたである。これを願心荘厳(がんしんしょうごん)の大法門という。一句万劫の渇(まんごうのかつ)を治す。活句(かっく)に参じて死句(しく)に参ずること勿かれ。日々に玩味(がんみ)し憶念すれば、自然に必ず生死の苦海を超断することが出来る。佛法は一句のうちに無限の意義がこもっておる。その無限の空を望み見るほど楽しいことはない。如来様の無限の空は、不思議の佛智、不思議の大悲心に続いていて、無限によろこばしい。阿弥陀さまはありがたい。
65 どうしてもこうしても、銀山鉄壁が破られるものではない。これは凡夫の力ではいかん。聖人の大信海の全部であり、またそれの丸出しであるところのこの一句の外に佛法なし、生死を出ずる道なし、といただいている。阿弥陀さまはありがたい。ああ楽しい一生であった。
2 件のコメント:
生死を出ずる道なし、といただいている。
とあります。
どこに生死(しょうじ)を出(い)ずる道があるのやらと、善知識(ぜんちしき)を求めて必死に尋ねるのですが、「なし」と明確に教えていただいています。
前には道はないのです。むしろ後ろに道ができるのでしょう。
後にできる道。
「自らの歩みが他の人を導くことになる」と言えますし、「振り返れば今までの私の歩みは全てお育てであった。たまたま行信を獲て宿縁を慶ぶ」ことともいただけます。
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