浄土真宗は果海顕現の大法門である。佛の荘厳(不虚作住持功徳)が、ぞろっと娑婆世界に現れてくださったのが、衆生往生の法門、信心成就の大本源である。
往生は、信心忘れて、聞いたということも忘れ、聞かぬ昔の泥凡夫に引きおろされて、唯だ阿弥陀如来様を憶念して、本願力によりて往生させていただくのである。「どうしても助からぬ者」を助けて下さるのが、阿弥陀如来という親様である。不思議な、ありがたい、えらい親様である。えらい佛様である。
親様ござる 何のことないわい (瑞劔)
「自分はこう聞いておる、これでよし」と思うことが大きな瑕のもとである。「これでよし」もいかん、「これではいかん」もよろしくない。それらは自分の思いである。思いはまた変わるぞよ。
いくたびか 思い返して 変わるらん
たのみがたきは わが心かな (瑞劔)
要するに、佛様がありがたく、佛様はえらい不思議な親様であるということが分からなくては何にもならぬ。信心いただいて念佛称えてよろこんで、安心してから参ろうと思う心は皆自力のはからいである。
如来様が尊い御方であると思わせていただくまでには、何百何千という難関が出てくる。それらの難関にぶつかって行き詰まる、行き詰まらぬ者には開けるときは来ない。
行き詰まれ行き詰まれ
早う行き詰まれ とことん行き詰まれ(瑞劔)
思うようにならぬのは我が心、我が心が我れの思うようになったとて、それで参れるお浄土ではない。唯だ佛力によりてのみ参らせていただくのである。
「佛力難思なれば古今も未だ有らず」(信巻)
佛力は難思である、弘誓は難思である。名号は難思である、無碍の光明は難思である。難思とは不可思議ということである。
「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(総序)
と。この外に凡夫が助かる道はない。これを思え、これを念え。二十年か三十年この聖句を毎日憶念して、この聖句に徹するがよい。聖句を忘れて信心はない。
覚えることが信心ではない、よろこんでおることが信心ではない、安心しておることが信心ではないが、聖句に徹して、佛力のうちに、佛智のうちに、大慈悲力のうちに安心させていただくのである。
「教と佛語にしたがへば 外の雑縁さらになし」
「よきひとの仰せをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり」
稲垣瑞劔師「法雷」第78号(1983年6月発行)