死なねばならぬ
死ぬることはいやであるが、一度は誰も彼も死なねばならぬ。三千世界の富をもらうよりも、生きておる方がよい。それでも生まれてきたからには、死んでゆかねばならぬ。
こういうあわれな私であるから、如来の無量寿という限りなき命を吸い取ることができた。そう考えてくると、死も宝となり、煩悩も珠と見えてくる。
信心がいただけぬと嘆いている人は、子供の時から、毎日毎日「死」を思わぬからである。他の学問はいざ知らず、佛法は「死」を抜きにしては、いくら聞いても、修行をしても、ものにはならぬ。よくよく心得べきことである。
心の据わり
親鸞聖人は「化身土巻」の終わりに、
「心を弘誓の佛地に樹て、念を難思の法海に流す」
と仰せられ、また、
「信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕わさん」
と申された。これが心の据わりである。「弘誓」に心を樹て、「願力」に信心をたくわえておれば、もう動くこともなく、盗まれる気遣いもない。安全第一である。風車のように、くるくるめぐり、変わる心も、変わりつつ不動である。そこが本願力のおかげというものである。
稲垣瑞劔師「法雷」第80号(1983年8月発行)
2 件のコメント:
変わる心も、変わりつつ不動である。
とあります。
凡夫のこころは、変わり通しであり、常にビクビクして、
落ち着かず安定しないのですが、そのままで阿弥陀のいのち
に摂め取られているのですから、動くこともなく安定するの
です。ありがたいことであります。
心の繕いがいらなくなった、どっち向いていようと自分の心と相撲を取らなくなっていた、いつからそうなったのか、後から気づいて安心することです。
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