2024年1月5日金曜日

死と心の据わり

死なねばならぬ

 死ぬることはいやであるが、一度は誰も彼も死なねばならぬ。三千世界の富をもらうよりも、生きておる方がよい。それでも生まれてきたからには、死んでゆかねばならぬ。
 こういうあわれな私であるから、如来の無量寿という限りなき命を吸い取ることができた。そう考えてくると、死も宝となり、煩悩も珠と見えてくる。
 信心がいただけぬと嘆いている人は、子供の時から、毎日毎日「死」を思わぬからである。他の学問はいざ知らず、佛法は「死」を抜きにしては、いくら聞いても、修行をしても、ものにはならぬ。よくよく心得べきことである。

心の据わり

 親鸞聖人は「化身土巻」の終わりに、

 「心を弘誓の佛地に樹て、念を難思の法海に流す」

と仰せられ、また、

 「信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕わさん」

と申された。これが心の据わりである。「弘誓」に心を樹て、「願力」に信心をたくわえておれば、もう動くこともなく、盗まれる気遣いもない。安全第一である。風車のように、くるくるめぐり、変わる心も、変わりつつ不動である。そこが本願力のおかげというものである。

稲垣瑞劔師「法雷」第80号(1983年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

変わる心も、変わりつつ不動である。
とあります。

 凡夫のこころは、変わり通しであり、常にビクビクして、
落ち着かず安定しないのですが、そのままで阿弥陀のいのち
に摂め取られているのですから、動くこともなく安定するの
です。ありがたいことであります。

光瑞寺 さんのコメント...

心の繕いがいらなくなった、どっち向いていようと自分の心と相撲を取らなくなっていた、いつからそうなったのか、後から気づいて安心することです。

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