佛法を聞くのに、人並みに聞いては何年経っても佛法の真味は分からぬ。佛法の真味とは如来の本願力である。
本願力は自分が罪業深重のいたづらものであるという深刻なる反省、自己批判の眼をもって見なければ分からぬ。本願力と罪業深重とは裏表である。
私は一人ここにおる、それを救うてくださるのは如来の本願力である。これを「一機一法」「一法一機」という。この機を救うものはこの法である。この法のみあって、能くこの機を救いたもう。「一機一法」よりほかに難しき法門どもをいくら覚えても、後生助かる力とはならぬ。
本願力を知ることは易いが、これを信ずることは難しい。死と罪業とを以て信ずるのである。心で信ずるのでない。死と罪業という人天虚仮の事実を以て信ずるのである。死と罪業の内より本願力を信ずる力が生まれてくる。それが本願力である。
稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)
2 件のコメント:
私は一人ここにおる、…死と罪業という人天虚仮の事実を以て信ずるのである。
とあります。
独りいまここにいる我は、自分ではどうしようもない命の肉体と
明かりの無い心に、行き場を失っているのです。
ただ、限りない寿と光である阿弥陀一仏におまかせばかりです。
ぼんやりものの私ですが、自分の老病と周囲の方々の老病死のお姿に、無常の命・我執と分別の愚かな心に気付かせてもらいます。すべて、目覚めておくれよとのお慈悲のお育てです。
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