2024年1月15日月曜日

誓願不思議にたすけられ

 一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつる。真宗の安心は易い。お浄土へ参ることも易い。易いというのは、一切善悪の凡夫、ことごとく皆、如来の本願力に乗じて参らせていただくからである。
 凡夫のはからいが混じったならば、その信心は不純なものとなり、往生することも難中の難である。「信巻」に曰く、

 「実語甚だ微妙なり、善巧句義に於いて甚深秘密の蔵なり」

と。如来の智願海は、深くて広くて涯底が無い。

 お釈迦様が佛であるということが分かり、佛・法・僧の三宝と、因果業報の大真理が分かると、「佛教」と「佛語」と「佛願」に随順することができる。この人は「真の佛弟子」である。随順とは素直に順うことである。それも自己の全生命をぶち込んで聞かぬことには、素直になれるものではない。

 素直になれ、素直になれ、素直になれ
 ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、ただ信ぜよ

 これが安心決定の秘訣である。素直になって、

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」

を、何十年の間、千万遍いただいて、毎日これを思い浮かべ、文字通り、そのまま、ただ「誓願不思議」を「誓願不思議」と信じ、「大誓願力」を「大誓願力」といただくがよい。殊に本願力の「力」一字、昼夜に憶念させていただくがよい。必ずや信眼開けて、往生の保証をこの一句のうちに見出すであろう。
 往生の保証を得ずして、人生の意義がどこにあるであろう。明るい生活がどこに期待できるであろう。
 「誓願不思議」が「誓願不思議」といただかれると、従って「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」を「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」と、そのままにいただくことができる。
 法の不思議に徹し、無始の根源悪に目覚めるとき、初めて如来の大悲心すなわち大智慧力、大慈悲力、大誓願力、大三昧力、摂取衆生力が心に徹して、無限の味わいが湧いてくる。「誓願不思議」の一句で眼を開けてくださる。念佛も出て下さる。

稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」
とあります。

『歎異抄』第一条の冒頭のお言葉で、この続きは
「と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」です。
親鸞聖人から直接にお話を聞かれた唯円が書き残されたと
言われる『歎異抄』に、いつも聖人が仰られていた事だと
わかります。この一句は、聖人の今に届く直説法であり、
まことに有り難いことであります。

光瑞寺 さんのコメント...

「弥陀の誓願不思議」がいつも御胸のうちに響いておられたのでしょう。
「誓願不思議」を「不思議!」と信ずる、その信をお伝えくださいました。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...