一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつる。真宗の安心は易い。お浄土へ参ることも易い。易いというのは、一切善悪の凡夫、ことごとく皆、如来の本願力に乗じて参らせていただくからである。
凡夫のはからいが混じったならば、その信心は不純なものとなり、往生することも難中の難である。「信巻」に曰く、
「実語甚だ微妙なり、善巧句義に於いて甚深秘密の蔵なり」
と。如来の智願海は、深くて広くて涯底が無い。
お釈迦様が佛であるということが分かり、佛・法・僧の三宝と、因果業報の大真理が分かると、「佛教」と「佛語」と「佛願」に随順することができる。この人は「真の佛弟子」である。随順とは素直に順うことである。それも自己の全生命をぶち込んで聞かぬことには、素直になれるものではない。
素直になれ、素直になれ、素直になれ
ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、ただ信ぜよ
これが安心決定の秘訣である。素直になって、
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」
を、何十年の間、千万遍いただいて、毎日これを思い浮かべ、文字通り、そのまま、ただ「誓願不思議」を「誓願不思議」と信じ、「大誓願力」を「大誓願力」といただくがよい。殊に本願力の「力」一字、昼夜に憶念させていただくがよい。必ずや信眼開けて、往生の保証をこの一句のうちに見出すであろう。
往生の保証を得ずして、人生の意義がどこにあるであろう。明るい生活がどこに期待できるであろう。
「誓願不思議」が「誓願不思議」といただかれると、従って「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」を「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」と、そのままにいただくことができる。
法の不思議に徹し、無始の根源悪に目覚めるとき、初めて如来の大悲心すなわち大智慧力、大慈悲力、大誓願力、大三昧力、摂取衆生力が心に徹して、無限の味わいが湧いてくる。「誓願不思議」の一句で眼を開けてくださる。念佛も出て下さる。
稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)
2 件のコメント:
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐるなり」
とあります。
『歎異抄』第一条の冒頭のお言葉で、この続きは
「と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」です。
親鸞聖人から直接にお話を聞かれた唯円が書き残されたと
言われる『歎異抄』に、いつも聖人が仰られていた事だと
わかります。この一句は、聖人の今に届く直説法であり、
まことに有り難いことであります。
「弥陀の誓願不思議」がいつも御胸のうちに響いておられたのでしょう。
「誓願不思議」を「不思議!」と信ずる、その信をお伝えくださいました。
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