阿弥陀如来という母親が、私というこの赤ん坊に、久遠劫の昔から耳のそばで「南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛」といって、私に教えてくださった佛の「ことば」が念佛である。大悲の「ことば」である。南無阿弥陀佛と一声聞いても佛に成る。南無阿弥陀佛は尊い尊い阿弥陀様である。私の言いたいことは、ただこれだけである。
佛智の不思議にはからわれ、誓願不思議にはからわれ、願力に乗じて往生するのである。ごてごて説明はいらぬ。人間の根源悪にめざめない者には、説明は却ってはからいを募らすようなものである。佛法は、自己の生死をかけて聞かぬと、「義なきを義とす」といった智願海の不思議はいただけるものではない。
人間九十年の一生涯に「誓願不思議」と、南無阿弥陀佛という如来様の「ことば」だけしか身に付かぬものと見える。うかうかしていては、海山ほどたくさん聞いてはおるが、身に付いたものとては一言半句もなく、死出の山路の末、三途の大河をば、ただひとり越えてゆくことになるであろう。
佛法は眼を内に向けてひとりよろこぶ法である。ひとりよろこべなければ佛法ではない。父母の恩、御師匠桂利劔先生の御恩がしみじみと感ぜられる。
法は文字を離れて、因にも属せず、縁にも在らず、法が不可思議なるが故に、尽十方無碍光如来が不可思議である。如来が不可思議なるが故に、誓願名号また不可思議である。誓願名号不可思議なるが故に、信心もまた不可思議である。信心不可思議なるが故に、往生もまた不可思議である。
相対の世界には安住が無い。誓願不可思議の絶対の世界にのみ凡夫の安らいがある。ただ誓願不思議を不思議と信ずるのが真宗の面目である。生死解脱の秘鍵は「ただ」の二文字にある。
稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)
2 件のコメント:
題名「ただのただ」とあります。
かつて、信仰の道程として、
まず、阿弥陀様のお救いは「ただじゃそうな」と聞いていく。
次に、お救いはただと言われるが「どんなただか ただがわからん」と苦しむ。
最後は、「ただもいらん ただじゃった」と救われる。
と聞かされていましたが、とんでもない間違いであります。
すべて、自分の計らいで阿弥陀様のお救いを持ち換えているものばかりだから、
間違いであります。ただのただであります。
「信仰の道程」をいろいろと思い巡らすこともありますが、なるほどすべて計らいですね。
「他力他力と思うていたが 思う心がみな自力」(加賀 森 ひな)
ようこんな頑迷な者を相手にしてくだされたことです。
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