神を信ずれば救われるという。救われたといって神に成れるか、生死の苦輪を脱することができるか。涅槃常楽の「真実智慧無為法身」という佛に成れるか。
この人生最高の理想が達成されないとすれば、それは救いでもなく、解脱でもなく、「死の解決」ではない。
世界の宗教は幾十万あるが、この一点を、唯だこの一点を解決し得た宗教は、また解決し得る宗教は、本願一乗、すなわち如来の大智大悲の声のみである。
この大問題の解決が、凡夫の知解分別や、自分はこう思っているといった小刀細工で解決し得られるわけがない。これは科学でも哲学でもいかん。
「死の解決」は大信心である。信心の解決は、大智大悲の如来の真実心による解決である。「鹿を追う者は山を見ず」と、自己の信心のみを見て、如来と、正覚と、本願名号を忘れておるのは信心ではない。
経に曰く「正覚大音、響流十方」と。正覚大音は、如来の方にて、衆生の往生を成就したまいし大音、南無阿弥陀佛である。これを「果上円成」とも「果上顕現」とも、「二利円満の大正覚」ともいう。
これを知らずして、自分が信心取って、自分が往生しようと思うておることは、未だ真宗を知らざる者と言わなくてはならぬ。
信心は人格と人格との触れ合いである。真実の如来と迷妄の凡夫と感応道交して、凡心が佛心に丸められたのが信心である。
「信心を取る」「もらう」「いただく」という、その信心は佛心なることを知らず、本願力なることを知らず、本願名号の他に別に「信心」という牡丹餅があるように思っているのは間違いである。
信心は如来から発せられたる大智大悲の放射能を、凡夫が霊感せしめられるだけである。放射能の他に霊感はない。勅命の他に信心はない。信心は「よび声」である。南無阿弥陀佛である。のらくら者にはこの霊感がない。霊感は事実である。
一心不乱に御聖教を拝見しておると、毎日毎時、いつ何時でも如来様の生の声を聞くことができる。お経は死んだものではない。如来の全身である。如来の生ける大生命である。人が法を説くというが、法が法を説き、法が法を教えて下さる。
誓願不思議を「不思議なことや」と感じされられたのが霊感である。
「親鸞におきては、ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」
とは、これすなわち霊感である、霊感の声である。
知った信心、何にもならぬ。首から上の佛法は何にもならぬ。知解分別の氷が溶けて、円解証入の水とならねばならぬ。円解証入を佛智円照という。これ如来より賜る霊感である。
稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)
2 件のコメント:
「自分が信心取って、自分が往生しようと思うておることは、未だ真宗を知らざる者と言わなくてはならぬ。」
とあります。
「自分が」と、何の力も無いものが、いくら頑張っても精がありません。阿弥陀さまが、出遭いに来てくださっています。
「生の声」はありがたい。聞く耳なくても聞かせてくださる。
清浄真実の霊波が不思議にも、この愚痴の心を温め、溶かしてくださいます。
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