2024年4月5日金曜日

御法にあいしこと

 親鸞聖人は、人並みにすぐれて御自身が如来様の御法に遇われ信心を獲られ、生死の大海もこれを後にして、光明のうちに住む身となられたことをよろこばれて、遠き宿世の因縁、佛の限りなきみ恵みを憶われ、「遇(たまたま)行信を獲れば遠く宿縁を慶べ」と仰せられました。
 たとい人間に生まれさせていただいても、またしても三悪道にかえるならば、何のよろこびがありましょう。生まれ難き人間に生まれ、遇い難き佛法に遇い、聞き難き御法を聞き、発し難い信心を発させていただいたことは、比べるもの無きよろこびであります。親鸞聖人は、

 「如来の興世にあひがたく 諸佛の経道ききがたし
   菩薩の勝法きくことも  無量劫にもまれらなり」

 「善知識にあふことも    をしふることもまたかたし
  よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」

と仰せられておよろこびになりました。

 天人は結構に見えていても天上の楽に耽って却って向上の一路を見失い、地獄は苦しみに遑なくしてこれを離るる術を知らず、されば人間界にのみ三世の御佛は出世して、衆生済度の妙法を説かるるということであります。人間に生まれて佛法を聞くことは「優曇華に遇った」とも「盲亀の浮木にあえるが如し」とも譬えてあります。
 親鸞聖人は、釈尊御一代の経経を信ずるよりも、弥陀如来の本願を信じよろこぶことは困難なことである、困難中の困難であって、これ以上の困難は世の中にはない、といった意味を述べさせられて、

 「一代諸教の信よりも  弘願の信楽なほかたし
  難中之難とときたまひ 無過斯難とのべたまふ」

と仰せられました。また蓮如上人は、

 「難中之難とあれば、かたくおこしがたき信なれども、佛智よりやすく得せしめたまふなり」

と仰せられました。

 私たちは、高僧たちのお言葉をいただき、また、よく自分の身に振り返って考えてみて、かかる無智憍慢のいたずらものであれば、とても自分の力では信じ得らるる筈でない最尊最高の妙法を、諸の聖尊がいろいろの善巧方便をもって、これを信ぜしめたまいしことをよろこばねばなりません。『安心決定鈔』には、

 「弥陀は兆載永劫のあひだ、無善の凡夫に代わりて願行を励まし、釈尊は五百塵点劫の往昔より八千返まで世に出でて、かかる不思議の誓願を吾等に知らせんとしたまふを、今まで聞かざることを慚づべし」

といましめてあります。また親鸞聖人は、

 「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを助けんと思し召したる本願のかたじけなさよ」

とつねに御述懐あらせられました。御法悦にあふれたこのお言葉は、私たちの胸にひしひしとせまりくる感があります。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

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