親鸞聖人の御流罪と一生赤貧で御難儀あそばされた歴史を見るにつけ、今日の我等が、お寺へ参り佛法を聴聞しておるのに、もっと幸福になれそうなものだなどと考えることは、聖人に対して恥ずかしいことではないか。かねて「煩悩具足」「無常火宅」の世であるとお聞かせにあずかっていることは、どこへ行ったのであるか。
そもそも人間の苦しみは何が原因であるか。いわく、人間に生まれてきたからである。前生の「無明」と「業」の結果である。苦しい中から佛法を聞かせていただけば、不思議なもので、苦は苦ながらに、苦を超えて、よろこびが湧き起こるものである。「生死勤苦の本」を抜いてくださる本願力が尊く仰がれるのである。
信心をいただきたいと思う心を後回しにして、佛様とはどういう御方であるかと尋ねるがよい。佛様がわかれば信心はそのうちにある。
他力の純一無雑の信心は、深くして高く、無限の尊さがあり、実に不可思議なものである。勅命に信順する信心は佛の大悲心であり、佛智であるから、その功徳は無辺である。
大信心の世界に於てのみ凡夫は無我である。無我の信心は「真如一実の信海」である。自分がいただく信心でありながら、その深さも尊さも、その価値も自分では分からぬ。諸佛如来の知りたもうところである。また諸佛如来の讃嘆したもうところである。
聖道門の人は「無我」を目指し、「無心」「無念」を目標として修行するのであるが、浄土門の人は「本願招喚の勅命」によりて「無我の大信心」を獲得するのである。
人間の言うておる「自由」は煩悩の延長であり、「我が儘」「勝手」を自由と考えておる。佛の自由とは「一切衆生を抱きかかえたままお立ちくだされておる大正覚の大自由である。「無碍の光明」が佛の大自由を語っておる。わが「無碍」とは「生死即涅槃」である。法界のうち自由とは「無碍の光明」の他にあり得ない、すなわち如来の大悲の佛智は大自由である。この世から如来の大自由に一味にさせていただいたことをよろこばせていただくのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)