2024年5月25日土曜日

すなわちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまふ

 親鸞聖人の御流罪と一生赤貧で御難儀あそばされた歴史を見るにつけ、今日の我等が、お寺へ参り佛法を聴聞しておるのに、もっと幸福になれそうなものだなどと考えることは、聖人に対して恥ずかしいことではないか。かねて「煩悩具足」「無常火宅」の世であるとお聞かせにあずかっていることは、どこへ行ったのであるか。

 そもそも人間の苦しみは何が原因であるか。いわく、人間に生まれてきたからである。前生の「無明」と「業」の結果である。苦しい中から佛法を聞かせていただけば、不思議なもので、苦は苦ながらに、苦を超えて、よろこびが湧き起こるものである。「生死勤苦の本」を抜いてくださる本願力が尊く仰がれるのである。
 信心をいただきたいと思う心を後回しにして、佛様とはどういう御方であるかと尋ねるがよい。佛様がわかれば信心はそのうちにある。

 他力の純一無雑の信心は、深くして高く、無限の尊さがあり、実に不可思議なものである。勅命に信順する信心は佛の大悲心であり、佛智であるから、その功徳は無辺である。
 大信心の世界に於てのみ凡夫は無我である。無我の信心は「真如一実の信海」である。自分がいただく信心でありながら、その深さも尊さも、その価値も自分では分からぬ。諸佛如来の知りたもうところである。また諸佛如来の讃嘆したもうところである。
 聖道門の人は「無我」を目指し、「無心」「無念」を目標として修行するのであるが、浄土門の人は「本願招喚の勅命」によりて「無我の大信心」を獲得するのである。

 人間の言うておる「自由」は煩悩の延長であり、「我が儘」「勝手」を自由と考えておる。佛の自由とは「一切衆生を抱きかかえたままお立ちくだされておる大正覚の大自由である。「無碍の光明」が佛の大自由を語っておる。わが「無碍」とは「生死即涅槃」である。法界のうち自由とは「無碍の光明」の他にあり得ない、すなわち如来の大悲の佛智は大自由である。この世から如来の大自由に一味にさせていただいたことをよろこばせていただくのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

2024年5月20日月曜日

死の解決㈤

 たとい成佛する教えがあり、道があっても難行苦行ではあかん。それを修するに長日月を要し、すべての善を実践し、心の猿を退治し、心の駒を縛り付け、逆巻く意識の波を鎮めなければならないというのでは、今目の前にある死の解決には役に立たぬ。たとい千年の寿を保つとも、今日の凡愚としては、廃悪修善 行じ難く、息慮凝心は思いも寄らぬことである。

 法と合一し、真理と一如になって、文字通り慈悲の光明、救いの大生命であらせられる人はお釈迦様である。何億万年に一人出るか出ないか分からぬほどの偉い人である。
 お釈迦様は佛陀である。すべての人間は、たとい罪深くとも一心に帰命すれば必ず佛陀に成り得られる、ということをお説きになった。
 そういう教えを説いた人はお釈迦様ただ一人である。そしてお釈迦様は不死の大生命そのものである。佛陀のことばは真実である。大道である。佛陀は一切衆生の生命であり、血肉である。

 お釈迦様と同じように佛陀であり、またお釈迦様の本地である佛陀が阿弥陀如来である。お釈迦様は阿弥陀如来のことばを聞け、本願を聞けと教えたもうた。その勧めのことばが大蔵経である。大蔵経のエキスが「南無阿弥陀佛」という本願である。
 「南無阿弥陀佛」は阿弥陀如来である。親様である。本願は如来の「よびごえ」である。「よびごえ」は「仰せ」である。

 「汝一心正念にして直ちに来たれ、我能く汝を護らん」

という仰せである。この「仰せ」、この「勅命」が久遠のむかしから尽十方に響き渡っておる。「勅命」は如来の智慧であり、力であり、功徳であり、光明であり、宇宙の大真理であり、大生命である。

 勅命が佛か、佛が勅命か、不二一体の如来を「南無阿弥陀佛」というのである。
 人間は唯だ阿弥陀如来の大慈悲によってのみ救われ、大涅槃に到り、佛陀に成ることができる。右を見、左を見てぐずぐずしていては道を失い、永遠の亡びに至る。

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

2024年5月15日水曜日

死の解決㈣

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。
 真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大自覚を持ってこそ「救われた」と言えるのである。
 今日教えを説く人は教主ではない、聖者ではない。我らと同じく五欲に耽っておる凡愚である。それを思わなくてはならぬ。教師自らもそれを自覚して告白しなくてはならぬ。

 かかる見地に立って世界中の宗教を眺めてみると、悲しい哉、どの宗教も、「神に成れる」という教えはない。「神のみが救い主だ」「絶対者だ」「全智・全能・偏在・愛なり」と、お山の大将を決め込んでいても、罪の子である人間が神に成れないようなことでは、普遍の真理でも平等主義でもない。
 神と人とを隔絶し、永久に牆壁を設けておるような宗教は、宇宙人生を根本的に解決し、人をして解脱に至らしめる能力なき宗教である。

 人間は死んでゆく。同時にその人間は、罪に汚れてはおるが、神のところまでも、佛のところまでも自己を向上せしめ、自己を拡充しなければおかぬという、尊い、無限の大理想を持っておる不思議な動物だ。この聖なる欲求をどうしてくれるのか。
 これを放棄するのは動物に還ることであり、これを抑圧するのは人間理性を冒涜するものである。この欲求を充たしてやる宗教こそ真の宗教でないか。

 信仰すればどうなるのか。その到達点を示さなければつまらんではないか。到達点は神それ自身に成ることだ。佛それ自身に成ることだ。智慧を慈悲とを円満したる覚者になることだ。
 神佛が真理であり、生命であり、自己拡充の絶頂に昇った人であるならば、人間もそのところまで行かねば、真の生命を克ち得たというわけにはゆかぬ。

 「法」は法界に普遍し、万物に貫通しておる。「尽十方界は是れ真実人体」であり、「一顆の明珠」である。神と人との間に根本的隔絶が無いというのが真理である。
 「神に祈れ」と教える宗教には、悲しい哉、神に成る教えがない、道がない。神人合一を物語るが、罪の子が実際神に成ったという前例がない。
 ただ一つ大乗佛教においてのみ、解脱に至る教えがあり、佛陀に成る道がある。

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

2024年5月10日金曜日

死の解決㈢

 禍福吉凶の占い、みくじ、まじない、日の良し悪し、姓名判断、生れ月日などで人間の運命が決るものならば、敗戦や人口増加や、貿易の不振や外交・外敵などで国民全体が苦しんでおるのはどうすのか。宗教は解脱であり、宇宙人生の根本的解決であらねばならぬ。
 善の解決は悪の解決であり、宇宙の解決は肉体の解決であり、肉体の解決は心の解決であり、幸福の解決は不幸の解決であり、生の解決は死の解決であり、また実に宇宙人生を貫く「法」の体解である。誰か「法」と一如になったおらぬか。自分はその人を通じて「法」を聞きたい。「法」そのままの人の声を聞きたい。
 「法」と「人」、「真理」と「慈悲」、それが具体的にあらわれた人のことばは、必ずや光明であろう。光明のことば、温かい光明のことば、智慧の光明、慈悲の光明、温かい光明の真理のみが、今の死を解決して解脱を得させてくれるであろう。

 然り、佛陀の光明のみが、生と死、善と悪、煩悩と菩提、生死と涅槃とを包容し、世界と我と、苦と楽と、幸と不幸と、智慧と愚痴と、一切の相反するものを摧破し、相対の世界を超えて、死にぶつかって悩んでおる人を救い得るのである。
 迷える人を救うのに、迷える人の言葉が何になるか、迷える人の悩みを救うのに「五欲街道」の修理道具が何の役に立つか。覚れる人、真に目覚めた人、相対の迷いの世界を離れて、世を救うために出られた佛陀のみが、本当に死を解決してくれる。

 たくさんの言葉を聞かなくても、一言でもよい、一句でもよい。佛陀のことばは甚深微妙、不可思議の功徳と力がこもってあるのに相違ない。真理と慈悲のことばに違いない。否、佛陀の心も身も、真理であり、法であり、力であり、慈悲であり、智慧であり、光明であり、救いであり、また実に死の淵に沈んでおる人にとって唯一つの大生命であるに違いない。ああ、佛陀世尊に遇いたい。その人に接したい。その人の光明に触れたいものだ。

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...