2024年6月15日土曜日

本願の不思議に助けられて往生すること

 大乗佛教の眼を開いて、真実の道を求めんとする昔の聖者たちの中には、龍樹菩薩や天親菩薩のごとく、此の世から悟りを開く即身成佛の理想を追うことを止めて、往生浄土の実際的の門を叩かれた人がたくさんあります。
 親鸞聖人は二十年間も叡山におられて、難行苦行をせられたのでありましたが、どうしても自己出離の問題を解決することができなかったところから、ついに法然上人の禅室を訪われたのでありました。これをみても即身成仏の教えのいかに至難であるかが分かります。
 私たちのごとき無善造悪の凡夫が、直ちに高妙なる弥陀の浄土に往生することができるのが、浄土真宗、親鸞聖人の宗教であって、これを願心荘厳の法門と申します。これはひとえに本願の不思議に助けられて往生を遂ぐる教法であります。
 生死の大問題がどうして自己の力で解決することができましょう。されば『執持鈔』には、

 「本願寺聖人の仰にのたまはく、・・・是非しらず邪正もわかぬこの身にて、小慈小悲もなけれども、名利に人師をこのむなり。往生浄土のためにはただ信心を先とす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」

と仰せられました。よくよく心を留めて我が身を省み、己が能を思量して深く佛法を味わい、たれのひとも往生の志願を満足せしむべきであります。
 ー 桂利劔師の法語

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「生死の大問題がどうして自己の力で解決することができましょう。」とあります。
私の力では、生死いづべき道は見つかりません。まさに道無しです。
仏様にすべておまかせするのみです。

光瑞寺 さんのコメント...

先人方はようこのような大問題に真っ向から取り組まれたことよ、と思います。「ここに道無し」と知れるのも「ここに道有り」と知れるのも、いずれもいずれも御恩なのでしょう。

空手にて いたゞく寳 無尽蔵

 今死ぬとなれば、何一つ役に立つものはない。 役に立つものを一つも持ち合わさないでお助けくださるから、ありがたい。 「ありがたい」とは、如来の不可思議力を不思議と仰いだところに、おのずから湧きおこる歓喜である。 念佛者は、信心歓喜の生活である。 稲垣瑞劔師「法雷」第91号(198...