大乗佛教の眼を開いて、真実の道を求めんとする昔の聖者たちの中には、龍樹菩薩や天親菩薩のごとく、此の世から悟りを開く即身成佛の理想を追うことを止めて、往生浄土の実際的の門を叩かれた人がたくさんあります。
親鸞聖人は二十年間も叡山におられて、難行苦行をせられたのでありましたが、どうしても自己出離の問題を解決することができなかったところから、ついに法然上人の禅室を訪われたのでありました。これをみても即身成仏の教えのいかに至難であるかが分かります。
私たちのごとき無善造悪の凡夫が、直ちに高妙なる弥陀の浄土に往生することができるのが、浄土真宗、親鸞聖人の宗教であって、これを願心荘厳の法門と申します。これはひとえに本願の不思議に助けられて往生を遂ぐる教法であります。
生死の大問題がどうして自己の力で解決することができましょう。されば『執持鈔』には、
「本願寺聖人の仰にのたまはく、・・・是非しらず邪正もわかぬこの身にて、小慈小悲もなけれども、名利に人師をこのむなり。往生浄土のためにはただ信心を先とす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」
と仰せられました。よくよく心を留めて我が身を省み、己が能を思量して深く佛法を味わい、たれのひとも往生の志願を満足せしむべきであります。
ー 桂利劔師の法語
稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)
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