2024年7月20日土曜日

寂静無為の涅槃界



  寂静無為の涅槃界
  有無 善悪を 飛び超えて
  六字となってあらわるゝ
  声は 佛智大悲の および声
             瑞劔



 久遠劫よりこの世まで  あはれみましますしるしには
 佛智不思議につけしめて 善悪浄穢もなかりけり

 佛智不思議に誘引して、本願力を信じさせていただくことができた。佛智不思議の世界には、善悪浄穢もない。澄倫理的の佛智は不思議である。宗教として善悪浄穢を超越するということは、普通にあり得ないことである。よろこばなくてはならぬ。本願力と信心には、善悪浄穢がない。善悪浄穢を超えることは佛智の不思議である。

稲垣瑞劔師「法雷」第85号(1984年1月発行)


2024年7月15日月曜日

み佛に 見られ知られて うれし慚し


 信者は、自分の身を省みては慚じ、法徳を仰いでは慶ぶ。無慚無愧のものは人間とは言われぬ。

  無慚無愧のこの身にて
   まことのこころはなけれども
   弥陀の回向の御名なれば
   功徳は十方にみちたまふ

 南無阿弥陀佛は弥陀回向の法であるから、その功徳を思わなくてはならぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)

2024年7月10日水曜日

本願力が大きいで 地獄を負うて 極楽へ 瑞劔


 地獄必定の深信の底から、「本願力は大きいでなあ」の声が聞こえる。願力往生と深信した、その底から地獄必定の自分の機が知らされる。

 真っ暗闇のその下に「本願力は大きいでなあ」と響いてくる。
 死中に活あり、活中死あり。「死」とは地獄必定の信である。
 大垣市外池田町六の井の原武夫さんは、かつて大病をして死なんとしたとき、如実にこの声を聞かれた。能登川町の市原ふさ女は、この一言で往生した。

稲垣瑞劔師『法雷句集』(1969年4月発行)
 

2024年7月5日金曜日

道は一すじ

 心の病気

 師匠につかぬと、心の病気が治らぬ。凡夫は知らず知らずに、多く聞き、多く読み、涅槃のために役に立たぬことを、かれこれとはかろうておる。その病気を治してくださるのが師匠である。吹いたら飛ぶような学問では、死出の山路の関所は通られぬ。
  

 命のつな

 凡夫の力では、とても「本願力一つ」に眼がつかぬ。命のつなは、ただ一本である。千万年考えても、深いことを知っても、自身の往生のためには何の役にも立たぬ。
  

 自力と他力

 自力の修業というのは、凡夫が佛に成る道程である。他力とは、佛に成った阿弥陀如来の本願力である。名号の功徳は無尽で、如来の智慧海は大きくて底知れぬ。
  

 第十八願の声

 本願とは第十八願である。力とは南無阿弥陀佛という正覚の威神功徳力である。それが一つになったのを「本願力」という。本願力と佛智不思議とは一つである。佛智不思議によって本願力の不思議がある。「若不生者 不取正覚」の本願はよびごえである。二利円満の正覚の声である。正覚の功徳力を信じたのを「よびごえを聞いた」という。
  

 何がむつかしいか

 何がむつかしいかというたところで、佛を凡夫に知らせるほど難しいことはない。久遠実成の阿弥陀佛は、南無阿弥陀佛という本願を建てて喚んでくだされている。佛に衆生を助くる大智大悲と、本願力がある。凡夫には分からぬ。分からぬのが事実である。如来の照育によって、それが信ぜられる。

稲垣瑞劔師「法雷」第85号(1984年1月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...