凡夫の眼に映る宇宙間の森羅万象には相反する二面があって、この二面があるから「存在」しておるのである。「有」(存在)は「有」のまま「無」であり、「無」は「無」のまま「有」である。
この真理は「無我」「真空」の世界に於いてのみ実証しうるのである。この実証の世界に於いては宇宙間の相反する二面は、相反するまま「不二」の境地に到り、「不二」のまま相反する多種の様相を呈しておるのである。
「生死」は「生死」、「涅槃」は「涅槃」と見るのは「不二の二」であり、「生死即涅槃」と見るのは「二にして不二」の世界である。この辺の呼吸がわからぬと、佛教はわからない。
「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、佛の家になげいれて、佛のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをも、ついやさずして、生死をはなれて佛となる。」
とは「無我」を実証した風光である。「佛」とは一念心の清浄にして「無分別」「無念」にして「無我」の心境をいうのである。それを「佛のかたよりおこなわれて」と言うのである。
「無我」は佛法の面目である。また実に宇宙万有の実相である。「無我」に「我」を執ずるを「凡夫」というのである。「我」(または執着)を払拭するならば、物とともに自然にして、すなわち「佛」であり、涅槃である。
「我執」をもって見たる生死は、迷える者の見る生死であって、「無我」の聖者の見たる生死は、「生死すなわち涅槃」としての生死である。生死に二つはない。ただ見解の相違のみである。故に臨済禅師は「真正の見解」を強調されたのである。
「真正の見解」をいかにして得るかといえば、戒律と禅定と智慧の三学のうち、特に「定慧」によらなければならぬ。「定慧」の完成されたところ、すなわち「真正の見解」である。このとき生死を離れて佛となるのである。
終わりに、浄土門において生死を離れるものは、「無我の念佛」「無我の信心」によりて生死を離れるのである。如来の仰せを聞くところ、南無阿弥陀佛という大智大悲の声を聞くところ、自分が行じていることも忘れ、信じていることも忘れ、己を忘れて、南無阿弥陀佛と称え、よろこぶのである。
自分が行じて生死を離れるに非ず、自分が信じて生死を離れるに非ず、南無阿弥陀佛という大智大悲の「よびごえ」のうちに信心を彰わし、念佛の行は南無阿弥陀佛に帰り、ここに南無阿弥陀佛に帰入して、生死を離れるのである。これを『歎異抄』には、
「弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて往生をば遂ぐるなり」
といい、また
「ただ念佛して弥陀に助けられまゐらする」
というのである。要は誓願不思議を不思議と信ずるところに生死の解決がある。
「禅」と「念佛」、いずれにしても幾十年、蒼龍の窟に下り、荊棘林を通過しなければならぬ。
稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)
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