2019年10月22日火曜日
2019年10月17日木曜日
聖典拝読の悦び
聖典を拝読して、わからなければ何べんも繰り返して、わかるまで拝読すべきである。わからぬ、暇がないと云って読まぬということはよくない。また、わかったと云って、捨てておいては真味がわからぬ。
お聖教は頭で読むのでなく、凡夫の智力で読むのでなく、自己の生死をかけて、人生を味わいつつ読むべきである。そのとき聖教の文字は如来の全身なるが故に、その光明に打たれるのである。
光明に打たれたしるしには、拝読することがおもしろくなり、楽しみになって、苦中の苦のうちに在っても、拝読せねばおかれぬことになる。これを法悦三昧という。
お聖教は頭で読むのでなく、凡夫の智力で読むのでなく、自己の生死をかけて、人生を味わいつつ読むべきである。そのとき聖教の文字は如来の全身なるが故に、その光明に打たれるのである。
光明に打たれたしるしには、拝読することがおもしろくなり、楽しみになって、苦中の苦のうちに在っても、拝読せねばおかれぬことになる。これを法悦三昧という。
ー 稲垣瑞劔師「法雷」第3号(1977年3月発行)
2019年10月13日日曜日
2019年10月10日木曜日
真宗の繁昌
真宗の繁昌は、一文不知の尼入道が、あぁありがたや南無阿弥陀佛とよろこぶすがたが、声が、行いが、佛法を繁昌させる。大学を卒業した人でも自分に信心のない人が佛法を繁昌させることはほとんどない。親鸞聖人はそのおこころであった。蓮如上人も同様である。
覚如上人の『報恩講式』に曰く、
「他力真宗の興行は即ち今師の知識より起こり、専修正行の繁昌は亦遺弟の念力より成ず。流れを汲んで本源を尋ぬるに、偏へに是れ祖師の徳なり」
と。何でも遺弟が念力を込めないことには、真宗は繁昌せぬ。真宗の繁昌とは信心の行者が一人でも殖えることである。
遺弟の念力はどこから生まれるかと言えば、信心から念力は生まれる。信なき今の世に於いては真宗が繁昌せぬのも道理である。どこへ行っても学徳信熱と揃うた人が少ない。学徒はすべからく一生涯学徳信でやろうと決心するがよい。
覚如上人の『報恩講式』に曰く、
「他力真宗の興行は即ち今師の知識より起こり、専修正行の繁昌は亦遺弟の念力より成ず。流れを汲んで本源を尋ぬるに、偏へに是れ祖師の徳なり」
と。何でも遺弟が念力を込めないことには、真宗は繁昌せぬ。真宗の繁昌とは信心の行者が一人でも殖えることである。
遺弟の念力はどこから生まれるかと言えば、信心から念力は生まれる。信なき今の世に於いては真宗が繁昌せぬのも道理である。どこへ行っても学徳信熱と揃うた人が少ない。学徒はすべからく一生涯学徳信でやろうと決心するがよい。
2019年10月3日木曜日
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佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておること...
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さらに道元禅師は「生死」の巻に曰く、 「これをいといすてんとすれば、すなわち佛の御いのちをうしなわんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このとき、はじめて佛のこころに入る...
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露の命であるから、自分の生死の問題は急を要する。地獄の猛火がひざの下から、えんえんと燃え上がっておる。その中で佛法を聞く。 その瞬間に佛法の真味を体得せねばならぬ。それは、如来の大慈悲本願力を、しみじみ感ずることである。 稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)