お聖教は頭で読むのでなく、凡夫の智力で読むのでなく、自己の生死をかけて、人生を味わいつつ読むべきである。そのとき聖教の文字は如来の全身なるが故に、その光明に打たれるのである。
光明に打たれたしるしには、拝読することがおもしろくなり、楽しみになって、苦中の苦のうちに在っても、拝読せねばおかれぬことになる。これを法悦三昧という。
ー 稲垣瑞劔師「法雷」第3号(1977年3月発行)
まことが大道 如来の「まこと」一つが、涅槃に到る大道である。如来のまことの門が、私一人のために開かれてあるのに、何をくよくよ門の外で泣いているのか。それ「南無阿弥陀佛」と親様が迎えに来られている。 すうと透ればよい 門はいつでも開いておるけれども、自分の方でなんとかして開...
2 件のコメント:
聖典による学び(梯実圓和上)
http://access-jp.net/amida/monsi/kakehasi01/next.html
ここでは、
私が主体になって読むのではない、むしろ逆に「お聖教」が主体となって私が何者であるかを知らせていただくというような読み方がされなければなりません。
とあります。
先ほど頂いたお電話でもしやと思ってPC開きましたところ、コメントに気付きました。いつも有り難うございます。
梯和上の文章も読ませて頂きました。いずれ「お聖教」を深く味わってゆかれた方には、如来さまが語りかけて下さる心地がするのでしょうね。ありがたいご指南です。
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