2019年10月17日木曜日

聖典拝読の悦び

 聖典を拝読して、わからなければ何べんも繰り返して、わかるまで拝読すべきである。わからぬ、暇がないと云って読まぬということはよくない。また、わかったと云って、捨てておいては真味がわからぬ。
 お聖教は頭で読むのでなく、凡夫の智力で読むのでなく、自己の生死をかけて、人生を味わいつつ読むべきである。そのとき聖教の文字は如来の全身なるが故に、その光明に打たれるのである。
 光明に打たれたしるしには、拝読することがおもしろくなり、楽しみになって、苦中の苦のうちに在っても、拝読せねばおかれぬことになる。これを法悦三昧という。
ー 稲垣瑞劔師「法雷」第3号(1977年3月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

聖典による学び(梯実圓和上)
http://access-jp.net/amida/monsi/kakehasi01/next.html
ここでは、
私が主体になって読むのではない、むしろ逆に「お聖教」が主体となって私が何者であるかを知らせていただくというような読み方がされなければなりません。
とあります。

光瑞寺 さんのコメント...

先ほど頂いたお電話でもしやと思ってPC開きましたところ、コメントに気付きました。いつも有り難うございます。
梯和上の文章も読ませて頂きました。いずれ「お聖教」を深く味わってゆかれた方には、如来さまが語りかけて下さる心地がするのでしょうね。ありがたいご指南です。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...