2020年1月30日木曜日

2011(平成23)年6月発行


6 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...
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光瑞寺 さんのコメント...

近年は「合理的に利益を追求する」ことが共通の理念となっています。これが独善的に追求されていくと、自己の利益のためには、他の生命は軽視され、その生命を奪うことも問題視されなくなります。

そこには「殺生」という言葉も、「殺生とは罪深い行為だ」という認識も存在しません。

それに対して、自他不二の平等のさとりに立って己の生き方を省みた時、「せねばならぬこと(してはならぬこと)」は、おのずから明らかになります。自他を尊重していく上で、「他の命を奪う」のは自損損他の行為に他ならない。私はこれを罪として深く慎んでゆこう。

「戒め」とは、そのような「平等のさとり」に基づいて表されたものではないでしょうか。

土見誠輝 さんのコメント...
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土見誠輝 さんのコメント...
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土見誠輝 さんのコメント...

『嘗て「殺生」という言葉は、罪を表す言葉でした。』

かつて、仏法が分からなかった時、ハエや蚊などを手当たり次第に殺生をし
たことを、その罪の深さにとても恐れていました。

在俗の者が日常的にすべき三帰五戒を誓う中に「殺生をしない」があります。
浄土真宗では、阿弥陀仏の本願のはたらきによって、「殺生をしない者」も
「殺生をした者」も分け隔てなく平等に救われる。

「弥陀の誓願不思議にたすけ参らせて往生をば遂ぐるなり」と弥陀の光明に
出遇えば何をしても良いという訳ではありません。むしろ、法の教えを戴い
ているなら、より深く罪の重さを痛感するところで、より一層に「戒め」を
実践することに邁進させていただいているところです。

光瑞寺 さんのコメント...

分け隔てのない平等の法を仰ぎつつ、深く罪の重さを痛感する。
これが矛盾せずに、私の上に成立して下さる。
それが本願のはたらきであるとは、不思議なことです。

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