2020年1月30日木曜日
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和讃と歎異抄の味わい⑼
六、称名念佛をはげむ人 滋賀県にある一人のお坊さんがおられる。なかなか立派な、まじめな御僧である。そのお方は、第十八願の純粋他力の信心を長い間求められたが、どうしても「佛智即行」とか「尽十方無碍光如来一法身 (いっぽっしん) の独立」とか「本願力一つ」とか、また法然上人のお歌...
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「子どもが育つ魔法の言葉」 「批判ばかりされた子どもは 非難することをおぼえる 殴られて大きくなった子は 力にたよることをおぼえる しかし 激励をうけた子どもは 自信をおぼえる 寛容にであった子は 忍耐を 友情を知る子は 親切を 安心を経験した子は 信...
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どこの国でも物質文明が進むと、精神文化が衰えるのが通例である。神戸でも今から七十五年ほど前には、毎日説教のある寺が三つあった。いずれも百人以上の参詣人があった。今日では毎日説教のある寺は一ヵ寺もない。この現象は全国的である。 如来さまには無碍の光明がある。この光明の力は、煩悩と菩...
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佛という御方はどういう御方か、佛智はどのくらい深いものか、不思議なものか、本願力はどのくらい力強いものかということが飲み込めると、それがそのまま信心であるが、これが何十年説教を聞いても、しかと合点がゆかぬものであるから、信心は難中の難となってくる。 三部経でも和讃でも、大蔵経...
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近年は「合理的に利益を追求する」ことが共通の理念となっています。これが独善的に追求されていくと、自己の利益のためには、他の生命は軽視され、その生命を奪うことも問題視されなくなります。
そこには「殺生」という言葉も、「殺生とは罪深い行為だ」という認識も存在しません。
それに対して、自他不二の平等のさとりに立って己の生き方を省みた時、「せねばならぬこと(してはならぬこと)」は、おのずから明らかになります。自他を尊重していく上で、「他の命を奪う」のは自損損他の行為に他ならない。私はこれを罪として深く慎んでゆこう。
「戒め」とは、そのような「平等のさとり」に基づいて表されたものではないでしょうか。
『嘗て「殺生」という言葉は、罪を表す言葉でした。』
かつて、仏法が分からなかった時、ハエや蚊などを手当たり次第に殺生をし
たことを、その罪の深さにとても恐れていました。
在俗の者が日常的にすべき三帰五戒を誓う中に「殺生をしない」があります。
浄土真宗では、阿弥陀仏の本願のはたらきによって、「殺生をしない者」も
「殺生をした者」も分け隔てなく平等に救われる。
「弥陀の誓願不思議にたすけ参らせて往生をば遂ぐるなり」と弥陀の光明に
出遇えば何をしても良いという訳ではありません。むしろ、法の教えを戴い
ているなら、より深く罪の重さを痛感するところで、より一層に「戒め」を
実践することに邁進させていただいているところです。
分け隔てのない平等の法を仰ぎつつ、深く罪の重さを痛感する。
これが矛盾せずに、私の上に成立して下さる。
それが本願のはたらきであるとは、不思議なことです。
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