2020年4月2日木曜日

よんで助くる親じゃぞよ

南無阿弥陀佛の本願力の「よびごえ」を離れて、安心しようとあせること勿かれ。
「よびごえ」の中に安心もあり、信心もあり、往生もある。
白道を、一処には本願にたとえ、一処には信心にたとえられたのも、このこころである。

「信楽(信心)を願力に彰す」の一句、万劫に一たび聞くことを得たり。
「南無阿弥陀佛 一たびも聞けば往生 南無阿弥陀」の意味はここに在る。
これがほんとうの「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」である。

 親の身になって、子供によびかけて下さる不可思議大悲の「よびごえ」を一たび聞けば万劫の渇が治せられるではないか。親の身になれ、素直になれ。自分を人間と思うな、凡夫である。佛を親と思え、そこに後生の問題は解決する。

稲垣瑞劔師「法雷」第8号(1977年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「白道」は、二河の譬喩の中に出て来るもので、
浄土文類聚鈔には、「中間の白道は、即ち貪・瞋煩悩の中に、能く清浄願往生の心を生ずるに喩ふる也、」
とあることから、
白道は、凡夫自力の心に非ず、清浄願心、本願、信心、他力と教えて頂きました。

光瑞寺 さんのコメント...

辺も見えない貪瞋二河の真ん中に本願の白道が通って下さる。
通って下さっているままが、私の道である。
荒れ狂う私の貪瞋水火の真ん中に「心配するな」と道がある。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...