「よびごえ」の中に安心もあり、信心もあり、往生もある。
白道を、一処には本願にたとえ、一処には信心にたとえられたのも、このこころである。
「信楽(信心)を願力に彰す」の一句、万劫に一たび聞くことを得たり。
「南無阿弥陀佛 一たびも聞けば往生 南無阿弥陀」の意味はここに在る。
これがほんとうの「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」である。
親の身になって、子供によびかけて下さる不可思議大悲の「よびごえ」を一たび聞けば万劫の渇が治せられるではないか。親の身になれ、素直になれ。自分を人間と思うな、凡夫である。佛を親と思え、そこに後生の問題は解決する。
稲垣瑞劔師「法雷」第8号(1977年8月発行)
2 件のコメント:
「白道」は、二河の譬喩の中に出て来るもので、
浄土文類聚鈔には、「中間の白道は、即ち貪・瞋煩悩の中に、能く清浄願往生の心を生ずるに喩ふる也、」
とあることから、
白道は、凡夫自力の心に非ず、清浄願心、本願、信心、他力と教えて頂きました。
辺も見えない貪瞋二河の真ん中に本願の白道が通って下さる。
通って下さっているままが、私の道である。
荒れ狂う私の貪瞋水火の真ん中に「心配するな」と道がある。
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