2020年4月18日土曜日

如来の全身との体当たり

 浄土真宗は学佛大悲心によって、自己生死の大問題の完全なる解決である。自己の全身と如来の全身との体当たりである。如来さまも生きてござる、自分も生きておる。生きておるもの同士が、ここにぶつかって、全身を挙げての体当たりである。外から眺めておって何の佛法が味わわれるものか。
 外から見て批評するのならば、新聞記者の評論か、酒を飲みながら桜の花を見ておる花見客のようなものである。説教も花見客気分で聞いておっては、如来さまはお留守であり、自己もまたお留守である。空き家と空き家とが出逢うたところで何の得るところもない。

 如来の全身は、血もあり涙もある南無阿弥陀佛という「勅命」であり、本願という「よびごえ」である。ここに如来は全身を露出して、私の前に立ちあらわれ、私に呼びかけていて下さるのである。
 私は聞いたこと、覚えたこと、思いも、行いも、何もかもすてて、生死罪濁の丸はだかである。これが私の全身である。
 この小さな生命が如来の大生命にふれたとき、如来さまは助けて下さるのでなく、救うて下さるのでなく、私を大悲の生命のうちに融(とろ)け込ませていて下さるのである。
 そこを、
 「南無阿弥陀佛と 往生の すんでおること聞かされて」
というのである。
 如来さまは、私と遠く離れていてよんで下さっているかと思うたら、無碍の光明のうちに、私を抱き取って、「来いよ来いよ」と喚んでいて下さるのである。この大悲のよびごえを、一念無我に、理屈なしに、「忝うございます」と頭が下がったのを「学佛大悲心」というのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第8号(1977年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「・・・生きておるもの同士が、ここにぶつかって、全身を挙げての体当たりである。」

宗教は、哲学と違って、体験、実践、実行することです。
こんな言葉を思いつきました。

光瑞寺 さんのコメント...

「助けて下さるのでなく、救うて下さるのでなく、私を大悲の生命のうちに融け込ませていて下さる」

信心は私の胸に咲いた花、ぐらいに思っておりましたら、如来さまのお慈悲に融かされることだとは。思ったことも知ったことも罪も涙もそのままで、とは。

「信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...