外から見て批評するのならば、新聞記者の評論か、酒を飲みながら桜の花を見ておる花見客のようなものである。説教も花見客気分で聞いておっては、如来さまはお留守であり、自己もまたお留守である。空き家と空き家とが出逢うたところで何の得るところもない。
如来の全身は、血もあり涙もある南無阿弥陀佛という「勅命」であり、本願という「よびごえ」である。ここに如来は全身を露出して、私の前に立ちあらわれ、私に呼びかけていて下さるのである。
私は聞いたこと、覚えたこと、思いも、行いも、何もかもすてて、生死罪濁の丸はだかである。これが私の全身である。
この小さな生命が如来の大生命にふれたとき、如来さまは助けて下さるのでなく、救うて下さるのでなく、私を大悲の生命のうちに融(とろ)け込ませていて下さるのである。
そこを、
「南無阿弥陀佛と 往生の すんでおること聞かされて」
というのである。
如来さまは、私と遠く離れていてよんで下さっているかと思うたら、無碍の光明のうちに、私を抱き取って、「来いよ来いよ」と喚んでいて下さるのである。この大悲のよびごえを、一念無我に、理屈なしに、「忝うございます」と頭が下がったのを「学佛大悲心」というのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第8号(1977年8月発行)
2 件のコメント:
「・・・生きておるもの同士が、ここにぶつかって、全身を挙げての体当たりである。」
宗教は、哲学と違って、体験、実践、実行することです。
こんな言葉を思いつきました。
「助けて下さるのでなく、救うて下さるのでなく、私を大悲の生命のうちに融け込ませていて下さる」
信心は私の胸に咲いた花、ぐらいに思っておりましたら、如来さまのお慈悲に融かされることだとは。思ったことも知ったことも罪も涙もそのままで、とは。
「信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり」
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