2020年4月26日日曜日

法身の光輪きはもなく

 お聖教は如来の全身なるが故に、しみじみと拝読しておると、読む度ごとに、一頁ごとに、如来様が何かを教えて下さる。これを霊感と言うてもよかろうが、これは如来の生ける光明である。

 日々如来の光明に触れることが出来る身でありながら、これを捨てて、世俗の人の言葉のみに耳を傾けて煩悩を燃やしておるのは惜しいことである。

 「光明は智慧の相なり。乃至 能く十方衆生の無明の黒闇を除く」(論註)
とあるが、聖教拝読の光りこそ私の痴闇冥を除いて下さるのである。

稲垣瑞劔師「法雷」誌 第9号(1977年9月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

教行信証信巻に引用されて、
「仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。」
とありました。

土見誠輝 さんのコメント...

「かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。」
このうち、「かの如来の光明智相のごとく、」のことでありました。

光瑞寺 さんのコメント...

なぜ称名で救われるのか、如来の御名は如来の光明である。
この光明に破闇満願する徳があるからである。それが智慧の相である。

分かったような、分からんような話です。
でも、お聖教はその不思議を伝えてくださいます。
拝読する者の幸です。

和讃と歎異抄の味わい⑺

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