稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
教行信証信巻に引用されて、「仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。」とありました。
「かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。」このうち、「かの如来の光明智相のごとく、」のことでありました。
なぜ称名で救われるのか、如来の御名は如来の光明である。この光明に破闇満願する徳があるからである。それが智慧の相である。分かったような、分からんような話です。でも、お聖教はその不思議を伝えてくださいます。拝読する者の幸です。
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禅では「不立文字」ということを言うが、えらい禅師は、決してお経を嫌わぬ。白隠禅師は『法華経』を読んで悟りを開かれたということである。今日でも禅者は、『法華経』や『金剛経』や『楞厳経』、『般若心経』や『観音経』『楞伽経』などを特に尊ぶのである。またたくさんの禅書も語録も公案もある...
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教行信証信巻に引用されて、
「仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。」
とありました。
「かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。」
このうち、「かの如来の光明智相のごとく、」のことでありました。
なぜ称名で救われるのか、如来の御名は如来の光明である。
この光明に破闇満願する徳があるからである。それが智慧の相である。
分かったような、分からんような話です。
でも、お聖教はその不思議を伝えてくださいます。
拝読する者の幸です。
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