稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
教行信証信巻に引用されて、「仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。」とありました。
「かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。」このうち、「かの如来の光明智相のごとく、」のことでありました。
なぜ称名で救われるのか、如来の御名は如来の光明である。この光明に破闇満願する徳があるからである。それが智慧の相である。分かったような、分からんような話です。でも、お聖教はその不思議を伝えてくださいます。拝読する者の幸です。
コメントを投稿
佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。 佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...
3 件のコメント:
教行信証信巻に引用されて、
「仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。」
とありました。
「かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。」
このうち、「かの如来の光明智相のごとく、」のことでありました。
なぜ称名で救われるのか、如来の御名は如来の光明である。
この光明に破闇満願する徳があるからである。それが智慧の相である。
分かったような、分からんような話です。
でも、お聖教はその不思議を伝えてくださいます。
拝読する者の幸です。
コメントを投稿