2020年5月27日水曜日

一にも佛 二にも佛

 佛教は何と言っても佛法僧の三宝が中心である。その中でも佛宝が一番大切である。一にも二にも佛様、如来さまである。
 人生五十年、八十年「佛」の研究ばかりしておったところで、研究し尽くし、割り切り尽くされるものではない。否、たとい千万年の寿命を以てするも、「佛」の智慧、慈悲、功徳の世界は知り尽くされるものではない。恐らく大海の一滴、九牛の一毛、否、それ以下であろう。

 一つの佛語を通して無限性を望み見るというのも、実は「佛」の無限性が「浄信」という管を通して、それ自身を顕しておることである。有限を知り、割り切って行くというところには何等趣味も、奥ゆかしさもない。
 これに反して無限の徳海を一滴ずつ味わって行くところには、無限の奥ゆかしさと、言い尽くすことの出来ない満足とがある。満足して不足なく、不足なくして安心し、安心して慶喜する。これが一念の浄信の内容であり、様相である。
 佛語を通して、佛の功徳宝海の無限性に感動せしめられなければ、佛教の面目を把握したとは言えない。また真宗の生命に触れたとも言われない。

稲垣瑞劔師「法雷」第10号(1977年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「佛教の面目」とあったので、調べてみました。
もともとは「めんもく」と読む仏教用語で、いのちの有様、本来的な真の姿という意味ですが、
転じて、人に合わせる顔、世間に対する名誉という意味で、「めんぼく」と読まれるようになったそうです。
ここでは、「めんもく」であると思いました。

光瑞寺 さんのコメント...

瑞劔師は『臨済録』なども読んでおられたので、しばしば禅語が出てきます。
ここも「めんもく」でいいと思います。

「佛の無限性が、それ自身を顕している」
というのは、華厳経学の「性起」の義に通じるように思えます。
「如来さまが、いきてはたらいてござる」
と頂けるところです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...