2020年6月24日水曜日

心を弘誓の佛地に樹て

 『教行信証』総序の文に曰く「難思の弘誓は難度海を度する大船」と。
 「難度海」とは生死の苦海である。これをどうして渡るか。
 謂く、「難思の弘誓」である、本願力である。

 弘誓広大にして虚空の如く、諸の妙功徳を具す。これを『歎異抄』には
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をば遂ぐるなり」
とある。

 どうしたら助かるか、どうしたら救われるかと、問うこと勿れ。「難思の弘誓」、即ち「誓願不思議にたすけられまゐらす」のである。

 不可思議の佛智、「難思の弘誓」は如来の無量力功徳である。願力一つを仰いで安心安堵するも、亦是れ「難思の弘誓」の力である。

稲垣瑞劔師「法雷」第13号(1978年1月発行)

2020年6月18日木曜日

お寺だより 14

お寺だより(平成24年6月発行)

一年ご無沙汰したと思えば二ヶ月連続、お寺だよりをお届けします。
 

  5月22日・23日  永代経法要


 初日は「節談(ふしだん)」風のご法話でした。節談説教とは、難しい教えを節回しに乗せた易しい言葉で語る、浄土真宗の伝統的な話法です。落語などの話芸の原型とも言われます。
 当光瑞寺では初めてのことで、ご講師には丹波篠山から松島法城(まつしまほうじょう)先生にお出で頂きました。
 
 お話し下さったのは、先生の定番の一つ、『大厳師と針水和上』。

 江戸時代の学僧、宮内大厳(みやうちだいごん)は、数奇な出生から、やがて京都で学成り、信望を得て、山口教專寺の住職に迎えられます。
 ところが、お念佛を大切にされるご態度が、断固として揺るぎ無いものだったため、周囲から「大厳は親鸞聖人ご相伝の宗義に反した〈称名正因の邪義〉に陥ったのでは」との疑いが掛けられます。 

  • 称名正因の邪義(しょうみょうしょういんのじゃぎ)…信心をもって本とする信心正因が聖人一流の御勧化の趣旨である。しかるにその信心を軽んじ、「念佛を多く称えることが浄土へ往生する正因だ」と誤ること

 
 そしてその調査のために京都本願寺より派遣されたのが当代随一の傑僧、原口針水(はらぐちしんすい)和上でした。
 
 表に現れる態度だけで、内なる信仰の邪正を判断する難しさ、しかも、心得違いが蔓延(はびこ)れば、一宗の信仰の礎が崩れかねません。
 この重責を負うて問い糾す針水和上。大厳師もまた、その並みならぬ胸の中を、七言絶句で答えます。
 
罔極佛恩報謝情(もうぎょくのぶっとんほうしゃのおもい)
清晨幽夜但称名(せいしんゆうや ただしょうみょう)
堪歓吾唱雖吾聴(よろこびにたへたり われとなへ われきくなれど)
此是大悲招喚声(これはこれ だいひしょうかんのこえ)


極まりない佛恩報謝の情より、清々しい朝から閑かな夜に至るまで、ただひたすらに念佛をお称えする。
抑えようとしても抑えきれぬ歓びが、私の口を吐
(つ)き、念佛となって出て下さる。
私が称え、それを聴くのも私であるが、
これはまぎれもなく、「お前を落としはせぬぞ」と私を招き喚んで下さっている阿弥陀如来の大悲の声。



 この口を通して、「お前を救う」と喚んで下さる、如来の大慈悲の忝なさよ。大厳、お前の称える念佛は、己の手柄でも、如来へのご機嫌取りでもなかった、喚ばれるままに称えていた、その姿なのだな!「往生の正因は喚び声一つ」と聞いてくれた、それでこそ我らは当来の親友ぞ!
 
 佛恩溢れる一句に打たれた針水和上、この詩に一首の賛を添えます。
 
「われとなえ われ聞くなれど これはこれ つれてゆくぞの 弥陀のよびごえ」
 
 迷いの生死の打ち止めを、どこに肚(はら)(す)えるか。
 問うに値する人物がこれを問うてきた、だから私も畢生の大事(ひっせいのだいじ)としてこれに答えよう。
 
 この渾身のやりとりに、活きた本願力の躍動を感じます。
 

 初日は30名近くのお参りがあり、その中には初めてお寺に来て下さった方もいらっしゃいました。
 「大行・大信(だいぎょう・だいしん)」「信不退・行不退(しんふたい・ぎょうふたい)」など、耳慣れない言葉もありますが、こういった専門用語が理解できますと、味わいが一層深まります。


 二日目は勤行の後、「正信念佛偈」の写経をしました。
これも当寺では初めての開催。お手本通りなぞるだけと思って住職も初挑戦しましたが、意外と難しい。
 これは真剣に…と取り組んでいましたが、一時間もすると、目も疲れたし根気も続かないってことで、歓談しながらの、和気藹々とした写経会になりました。

 短時間でも一字一字に集中する、そういう機会が重なって、やがて習慣になればと思います。今後もよろしくお願い致します。    
合掌

2020年6月14日日曜日

最高の宗教

 他の宗教では「救われた」と言うが、少しばかりのこの世の幸福が、一時得られたら早や「救われた」と言う。本当の救いは、真宗のように、信心歓喜して正定聚に住し、往生して「法性常楽」を証し、還相する身分にしてもらったのが、ほんとうに救われたのである。

 悪いことばかり教えておる宗教は一つもない。どの宗教も善いことを教えておるが、「迷悟染浄の因縁」(転迷開悟、苦・集・滅・道)を教えておる宗教は、佛教を除いては他に一つもない。
 たとい天国に生まれたとて、自分の上にまだ神様がおられるといったことでは、「無我」にもなれず、「無分別智」も得られず、苦楽混合の身分なるが故に、真の救済とは言われない。
 また大智大悲が身に付かぬから、最高善に到達したとは言われない。ゆえに他の宗教の救いは、まだ迷妄の途中にあると言わねばならぬ。

 最高の宗教は、人間が究極のところ「無我」と「無分別智」とを得て、大智と大悲の活動を、佛と同様に活動する人間最高の理想に到達する宗教が、最高の宗教である。

稲垣瑞劔師「法雷」第10号(1977年10月発行)

2020年6月10日水曜日

お寺だより 13

お寺だより(平成24年5月発行)

春の天気は三日続かぬと言いますが、変わりやすい此の頃です。
同じく気まぐれな「お寺だより」、一年ぶりです。

4月15日 門信徒会バス旅行 ~湖北・長浜を巡る旅~


今回は、少し足を延ばして琵琶湖の北へ。24名の参加者は、誰も欠けることなく集合して、滋賀へ向かいました。

順調に走ったバスは、木ノ本ICを降りて、まずは向源寺(こうげんじ)に到着。
こちらの渡岸寺(どうがんじ)観音堂には、日本屈指の十一面観音像が祀られています。

寺伝によると、天平時代(8世紀)、聖武天皇の勅による除災祈願のために刻まれた観音像だそうです。

元亀元年(1570年)の姉川合戦の戦火を受け、堂宇は焼失します。
しかし観音を篤く信仰する住職 巧円(ぎょうえん)や近隣の住民が観音像を土中に埋めて難を逃れた、といいます。
この後、巧円は浄土真宗に改宗し、向源寺を建立されました。

現在は収蔵庫に収められている寺宝を前に、ご住職が説明して下さるお話を、私たちも聞かせて頂きました。

お寺への路地はのどかで、春の風が心地よかったです。参加者の高原さんの話では「五〇年前と変わっていない風景」だそうです。

その後、昼食と午後の散策のため長浜へ向かったのですが、市街に入った途端に渋滞。

桜も盛りの日曜日、しかもこの日は長浜曳山(ひきやま)まつりの本日(ほんび)に当たっていて、多くの観光客が押し寄せている様子。
停車地も変更してバスを降りると、長浜の商店街は人波で溢れていました。

その目の前を、「動く美術館」とも呼ばれる曳山(山車)が進み、その後ろに笛や太鼓の軽やかな音色が続きます。

昼食を頂いた後は、思い思いに自由散策へ。

私は大通寺(だいつうじ)へお参りしました。こちらは真宗大谷派(お東)の別院で、重要文化財にも指定されている大伽藍です。

その後集合して、喧噪から少し離れた本願寺派(お西)の長浜別院に参拝しました。
お勤めの後は、代表のご住職が財政難の苦労話をして下さいました。

私共も将来の経済的心配はありますが、だからこそ、お寺の一番の宝、「ここに私の求める道がある」という法の宝を輝かせたいなあ、とつくづく感じました。

家庭的なおもてなしを受け、境内で記念撮影。 (撮影・高坂総代様)
帰りは少々渋滞しましたが、無事に一日を終えることが出来ました。
参加者の皆様、差し入れ下さった方々、お陰様で有難うございました。

2020年6月6日土曜日

不思議だなあ!

 真宗の信心は、何と言っても「願力摂取」「勅命信順」である。
 それは、不思議の佛智を「不思議だなあ!」と信ずる外にはない。「不思議だなあ!」と心に思い、声にあらわれてこそ生ける宗教がある。生ける信心がある。

 たとい百万巻の書を読み、何十年聴聞しても、最後に「不思議だなあ」と声が挙げられないようでは、それはまだ「分かった」という程度であって、信心でも安心でも何でもない。その「分かった」というのも、理屈の上で少しばかり分かったというのみであって、佛法、佛道の上で分かったのではない。
 その種の信心は「若存若亡」であったり、絶えず心の奥底から生死未解決の証拠であるところの「もやもやしたもの」が飛び出すのである。「もやもや」がまた取り切れぬのに、「そのまま」「このまま」「それを目当ての御本願」ということはない。「明信佛智」の暁に出てこそ安心もあり、満足もあり、歓喜もあるのである。

 佛語を重く見、尊く思って、佛語を通し、佛語を噛みしめ、味わい味わって、そこから佛様の無限性を望み、功徳の大宝海を心身にいただくのでなければ、到底「もやもや」は取り切れないであろう。
 まあまあ一生涯、心血を注いで「佛」と「佛心」とを学ぶべきである。

稲垣瑞劔師「法雷」第10号(1977年10月発行)

2020年6月2日火曜日

2012(平成24)年4月の行事予定

  「子供の時から 合掌 礼拝   よいくせつけよ」(瑞劔)
 (法雷カレンダー 4月の言葉)

「まんまんちゃんに掌(て)を合(あ)わしよ」
 子や孫さんを諭(さと)しておられる優しい言葉をよく聞きました。動作は簡単、でもその動作が意味しているのは「私はこの方を尊敬する」という深い心です。

 佛様は己れの功徳を全て衆生に与えて下さる。そのような尊ぶべき存在に、私は初めて出遇い、それまでの己れの生き方を省みることになった。私の手は与えるよりも奪ってばかりだった。頭を下げないことが強さだと思ってきた。何と浅薄(あさはか)で愚かなことだろう。
 これからは佛様の言葉を尊び、佛様の御心を心として、この賜った命を、燃やし尽くそう。そのような尊い生き方を恵んで下さった佛様に掌を合わせ、頭を垂れずにはおれぬ。
  • 4月8日(日)1時半より 「正信偈法座」
  • 4月15日(日) 「バス旅行 ~湖北を巡る旅~」

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...