八万四千の法門は高いことは高いが、それらは皆「自心の声」である。阿弥陀如来の四十八願は、自心の声では助からぬ愚悪の私どもに喚びかけて下さった御親切なる「よびごえ」である。
四十八願をつづめた第十八の王願は
「如来の方で、至心・信楽という宝をお前のために作っておいたから、その宝をもって安養浄土へ生まれて来い」
という「よびごえ」である。
本願成就した南無阿弥陀佛は、
「我に汝を助くる「威神功徳不可思議の宝」を汝のためにすでに用意しておいた。その宝が汝を喚んでおるぞ」
と仰せられる。
南無阿弥陀佛は、無明の闇夜、生死の苦海に沈んでおる私に対する「よびごえ」である。すでに生死海の水を飲んで気絶しておる私を、親なればこそ、喚んで喚んで、喚びさまして下されたのである。喚んで下さることが、必ず助けるという大慈悲力、大誓願力である。凡夫が助かる道は、唯だ喚びさましていただくことのみである。
「よびごえ」に眼をさまさせていただいたら、あとは親様のお顔「南無阿弥陀佛」を見るばかりである。顔を見てから、親が助けてくれるだろうか、などと思う必要もない。南無阿弥陀佛が親であり、親の顔であり、親の「よびごえ」である。
信心を取ろう取ろうと焦るよりも、夜昼なしに久遠劫来、喚んで喚んで、喚びづめにしておられる親様の大慈悲心のほどを、有り難くいただくがよい。
教学や哲学もおもしろいが、いざ臨終となれば、親様の「よびごえ」でなくては間に合わぬ。釈迦如来の一代の御説法も、煎じつめたところは、阿弥陀如来の本願力の「よびごえ」一つである。
稲垣瑞劔師「法雷」13号(1978年1月発行)
2 件のコメント:
「よびごえ」
阿弥陀仏は、名となり、声となって、
十方の衆生に聞かせようと命がけで
誓っておられると教えていただいております。
「重誓名声聞十方」(正信偈)
南無阿弥陀佛
届いております、届いております。今、聞かせて頂いております。
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