親鸞聖人は、大信心を決定して、すなわち如来よりの霊感を得、如来の大悲心が徹到して、しかる後に大藏経を見なおされると、文々句々、如来の大智海の波瀾とみられ、経々悉く本願海をあらわすものであることが知られたのである。この大信眼を以て書かれたものが、『教行信証』一部六篇の珠玉である。
我等もまず如来の大悲本願力にめざめて、御本典を拝見し、和讃などを拝見すると、なるほどなるほどと合点がゆき、文々これ皆、聖人の法身と拝せらるのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)
親鸞聖人は、大信心を決定して、すなわち如来よりの霊感を得、如来の大悲心が徹到して、しかる後に大藏経を見なおされると、文々句々、如来の大智海の波瀾とみられ、経々悉く本願海をあらわすものであることが知られたのである。この大信眼を以て書かれたものが、『教行信証』一部六篇の珠玉である。
我等もまず如来の大悲本願力にめざめて、御本典を拝見し、和讃などを拝見すると、なるほどなるほどと合点がゆき、文々これ皆、聖人の法身と拝せらるのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)
佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。 佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...